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序章


 橋――それもとりわけ距離の長い鉄橋などは、その構造上の特性から盗聴を仕掛けるには最も困難な場所であると、いつだったか聞いたことがある。多分、学生の頃良く読んだミステリ小説で得た知識だろう。だったら、アテにはならない。推理ものの小説にはプラフやハッタリが多いからだ。さりげない薀蓄にも結構な割合で嘘が含まれているという。
 だけど、こうして橋の上を待ち合わせの場所に指定されたということは、あながち <橋と盗聴> に関するあのネタは嘘と言うわけではなかったらしい。
 そんなことを考えながら、神城しんじょうケンタは小さくと唇の端を吊り上げた。
 家族が生きるか死ぬかという時に、随分余裕のあることだ。どうやら神経が麻痺してきているらしい。それもそうだ。生死をかけたゲームに付き合い始めてからもう4年。常に神経を尖らせていたなら当の昔に廃人になっている。

「――ねえ、ユウコ」
 ケンタは傍らに立つ妻に微笑みかけた。形ばかりではあるが、冬の到来を予感させる冷たい風が吹いている。そして彼らが並んで立つ無人の寂れた鉄橋には、その風を遮るものは何一つとしてない。
 西暦2000年。後に <セカンド・インパクト> と呼ばれる未曾有の大災害の発生により、地球は地軸が歪む程のダメージを受けた。この影響で南極の氷は融解、海面の水位は一気に60〜85メートルもの上昇を見せ、世界中の都市を次々と飲み込んでいった。
 日本もこの大災厄から逃れることは叶わず、首都・東京をはじめとする幾多の都市が水没の悲劇に見舞われた挙げ句、四季の彩りを失い、常夏と国となるなど甚大な被害を被った。
 だが、 <使徒戦争> と呼ばれた混乱が2年前に終結して以来、この国にも徐々にだが季節が戻りつつある。最近では、季節の温度差が何とか肌で体感できるまでになったくらいだ。だからこそか、ジリジリと肌を焦がすような常夏の日差しに年中その身を苛まされてきた彼らには、季節の変わり目に吹く微かな冷風さえもかなり堪えるのだった。
「寒くないかい? 僕の上着が必要ならいつでも言ってくれ」
「平気よ。私は平気」
 神城ユウコは、透き通るような微笑で応えた。
 彼女と出会ってもう10年。何故、僕は彼女と結婚できたのだろう。妻のその笑顔を見ると、度々ケンタはそう思う。今でも、こんな出来た女性が自分を選んでくれたという事実を信じきれないことがある。
「考えてみれば何も外に立っている必要はないんだ。今ごろ気付くなんて間抜けな話だけど。無理しないで、君は車の中で待っていてくれてもいいんだよ。その方が絶対に暖かい」
「大丈夫よ。平気。私は女だから」
 再び無理のない笑みを浮かべて返す妻に、ケンタは首を軽く捻った。言葉の意味が分からない。何故、女性だと大丈夫なんだろうか。不思議に思って訊いてみると彼女は薄っすらと微笑んだ。
「女性の方が男性より体脂肪率が高いのよ。脂肪が多いと防寒効果が高まるわ」
「なるほど。女性の体がどうして比較的柔らかいのか、その長年の謎が解けたよ」
 そう言えば難破して冷たい海に落ちた時、男性より女性の方が長時間生きられると聞いたことがある。しかもこの情報ソースはリアリティに欠けるミステリ小説ではなく、科学的検証のなされた事実に基づくものだったと記憶している。なるほど、出力や耐久性においては一歩譲る部分があるもの、生命の維持や生物学的な完成度という面においては、女性の肉体は男性のそれを遥かに凌駕するものらしい。ケンタは彼女達に対する敬意を新たにした。

「ところで、どうして僕らは君たちより脂肪が少ないんだろう?」
 約束の時間まで、あと10分程度。時間を適当に潰すつもりで、ケンタは博学な妻に問い掛けた。もちろん、結婚前から彼女とこういう他愛もない問答をする一時がたまらなく好きだということもある。
「さあ、どうしてかしらね。良く分からないわ。でも、私なりの仮説はあるの」
 聞いてみる? と目で問いかけるユウコに、ケンタは軽く頷いた。
 彼の妻に限らず、日常の些細なところで女性という生き物は男性より頭が良い。多分、彼女たちは一般に思われているよりも論理的で合理的な考え方をするからだろう。ケンタはそう思っている。妻が確信をもって助言してくれる時は、無条件にそれを受け入れることにしている程だ。
「昔……大昔の話よ。原始時代くらい昔。その頃、男は狩りをする生き物だったでしょう? だから体力と筋力が必要だったの。対して女は、男が長期に渡る狩りの遠征に行っている間、住まいと家族を守る役割を担っていたわけ。そしてそうするためには、少ない栄養で長い間体調をキープする必要があったの。そこで女は脂肪を多く身に纏ったのだと思うわ。男はその代わりに筋肉を得たのね」
「なるほどね。でも、どうして女性は狩りに同伴しなかったんだい?」
「命を宿せるのは女だけだからよ。赤ちゃんを育てられるのも女だけでしょう。それに男性は母乳だって出せないもの。原始の時代に粉ミルクなんてないしね。だから赤ちゃんを産める女性は、家に残ることにしたのよ。考えてもみて? 身重だったり出産後間もない時は満足に動けないものでしょ。赤ちゃんにも毒だし」
「僕が聞く限り、完璧な説明みたいだ」ケンタは感嘆の唸りを上げると、妻を叡智を称えた。「1世紀半早く生まれてたら、女ホームズになれたかもしれないね」
 貴方の聞き上手ぶりも、ワトソン博士を演じるには適役かもしれない。そうユウコが冗談交じりに返そうとした時だった。橋の対岸側から1台の電動バッテリー式の自動車が滑るように近付いて来た。それが待ち合わせの人物たち以外にあり得ないことを神城夫妻は知っていた。と言うのも、待ち合わせの場所に選ばれたこの鉄橋は、人が寄りつく理由のない打ち捨てられた過去の遺物であるのだ。第三新東京市拡張計画とその工事が、使徒襲来の関係で頓挫した煽りを受けたのである。

「会社の同僚の彼?」
「多分ね」
 ユウコとケンタのやり取りを肯定するように、彼らの手前で停止した黒い乗用車の運転席から見知った顔が現れた。芹沢せりざわヨウヘイ。ケンタが勤める会社の、後輩に当たる男性である。
「神城さん、お待たせしました」
「いや、時間通りだよ。芹沢君」
 芹沢はエンジンを止め運転席のドアを閉めて神城夫妻に軽く会釈すると、直ぐに助手席に回った。その足取りは軽い。30前半か、ひょっとするとまだ20代かもしれない。ヒョロリとした細身で、一般人が <研究者> と聞いて抱く先入観を具現化したような男だった。
「さ、どうぞ。伊吹先輩」
 そう言って、芹沢は助手席のドアを開き、そこに腰掛けていた人物に言った。それに伴ない「ありがとう」と、澄んだ若い女性の声が聞こえてきた。その助手席の女性こそ、神城夫妻が朝早くこんな辺鄙な場所に足を運んでまで会いたかった人物である。
「おはよう御座います、神城さん。それにユウコさん」
 女性を伴なってケンタ達に歩み寄った芹沢は、にこやかに頭を下げた。芹沢が入社してきてから数年、業務上の指導だけではなく社会人としても良きアドヴァイザーとして努めてきたのが、他ならぬ神城ケンタである。したがって両者の仲は極めて良好なものだった。ケンタは何度も芹沢を家に招いたし、そのおかげでユウコとも親しくしている。仕事を超えプライヴェートな意味合いでの関係が構築されている以上、彼らが友人関係にあることを認めない要素はない。

「早速ご紹介します。こちらの女性が伊吹いぶきマヤさん。オレの学生時代の先輩で、NERV本部に勤めるスタッフです」
 芹沢は半歩横に引いて、後ろに控えていた伊吹という女性を夫妻に対面させた。
「で、伊吹先輩。こちらの方々が例のご夫婦です。オレがお世話になってる会社の先輩で、神城ユウタ氏とユウコ夫人」
「はじめまして、NERV技術開発部で主任研究員を務めている伊吹マヤです」
 そう言って軽く頭を下げた彼女は、非常な童顔もあってか芹沢よりも更に若く見えた。ボーイッシュと表現しても差し支えないような短めの黒髪に、大きく澄んだ頭髪と同じ色の瞳が印象的だ。少なくとも芹沢の先輩には見えない。むしろ、芹沢の妹か後輩と紹介された方がシックリくるくらいだった。
「神城です。今日はお忙しいところ本当に有り難う御座います」
 半ば呆然と彼女を見詰めていたことに気付き、神城夫妻は慌てて伊吹に頭を下げた。一通りの形式的挨拶を済ませ、握手を交わす。それから暫くして表情を引き締めると、伊吹女史が本題を切り出した。
「大体のお話は、芹沢君から聞いています。失礼ですが、NERVの方で事の真偽と――そして息子さん、ユウタ君のことも確認させていただきました」
 透き通った冬の空気を思わせる綺麗な声だ。少女と言って差し支えないほど愛らしい容姿と、それがまた良くマッチしている。しかもこの若さで技術部主任だというから、まさに才色兼備とはこのことだ。
「それで、 <チルドレン> とコンタクトを図りたいというご要望に関してですが――」
 話が本題に差し掛かった瞬間、ケンタは固唾を飲んで言葉の続きを待った。
 是非とも、ユウタの願いを叶えてやりたい。死の確率を内包した難病と戦う幼い我が子の唯一の夢を叶えてやりたい。脳裡に広がるのは、ただその一心だけだ。
 だが伊吹女史の次の言葉は、そんな夫妻の儚い願いを無残に打ち砕くものだった。
「残念ですが、NERVとしてはこれにお応えすることはできません。本当にごめんなさい。 お二人から戴いたお手紙を拝見しました。それに芹沢君からもお話を聞いて、私も上層部に何度か掛け合ってみました。ですが私の力では、上層部の決定を覆すに及びませんでした」
 伊吹女史は心から遺憾に思っているようだった。沈痛な面持ちで頭を垂れていることからも、それは顕著だ。

 勿論、無茶な頼みをしたのは神城夫妻の方であり、女史は厚意でそれを受けただけだ。彼女が謝罪する必要は何一つない。が、それでも彼女は心からの謝罪をしていた。それだけでも、伊吹マヤという人柄が窺えるというものである。
「ご存知の通り、 <チルドレン> は特務機関NERVの最重要機密に直接関連する存在であり、常に充分な安全確保と護衛が必要とされる立場にあります。不用意に世間に出せば命を狙われるような世界の住人なのです、あの子たちは。そのせいもあって、彼らに民間の方が接触を図るのは非常に困難と言わざるを得ないのが現状なのです」
「そう、ですか……」
 覚悟していたとは言え、神城夫妻は落胆を隠しきれない。だが考えもみれば、偶然ネルフ関係者と繋がりがある人間――芹沢が近くにいて、こうしてそのネルフの要人と直接交渉ができただけでも奇跡に近い出来事だ。
 それにNERVの <チルドレン> たちが、世界的に最も有名な英雄であり、その周辺警護はアメリカ合衆国大統領のそれにすら匹敵するまで厳重を極めるという事実は子供にも知られていることである。
 ただの一般人が <チルドレン> に面会を望む。土台、無茶な話だったということだ。

「ですが、これはNERVの表向きな回答です。 <チルドレン> たちが強く望み、これに安全性が見出せればNERVとしても許可せざるを得ません。彼らは人形ではなく、自由を持つひとりの人間なのですから」
 そう言って、伊吹女史はあまりに魅力的な笑みを浮かべた。
「それは、つまり……」
 思わぬ話の展開に、ケンタは1歩踏み出して言った。もしやという、淡い期待が心を支配する。そして伊吹マヤという女性自身、人にそんな期待を抱かせる不思議な力を持った人物だった。
「はい。神城さんご夫婦が直接 <チルドレン> に会って掛け合うことはできません。ですが、直接会わずとも意思を伝達する手段は幾らでもあります。ヴィデオ・フォン(TV電話)、ヴォイス・メッセージ、そして手紙。私は安全面から、この手紙による接触を提案します」
 伊吹女史はそう言って、NERVの制服の胸ポケットから3通の便箋セットらしきものを取り出して、神城夫婦に差し出した。
「我がNERV擁する <ファーストチルドレン> 綾波レイ、 <セカンドチルドレン> S・A・ラングレー、そして <サードチルドレン> 碇シンジ。お二人が望むなら、彼らに手紙をしたためてください。そして、それを改めて芹沢君に預けてくだされば、私が責任を持ってそれを受け取り、直接彼らに手渡すことをお約束します。そして――保証はありませんが――彼ら <チルドレン> がその想いに応えてくれると言ってくれれば、お二方の、そしてユウタ君の願いは叶うことになるかもしれません」
「それは本当ですか」
 ケンタとユウコは、驚愕に顔を見合わせた。小刻みに体が震え出す。諦めかけていた希望が、再び二人の心に灯された。
 日常から切り離された世界に生きる息子。ユウタの願いを叶えてあげられるかもしれない。まだ幼い我が子が夢見るように願う、その想いに応えられるかもしれない。
 会わせてあげられるかもしれないのだ。救世の三英雄――伝説の <チルドレン> に。


to be continued...



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