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第一章 「手紙」


 ――かつて、戦争があった。異様な力を持った極一部の人間が既得権益の維持拡大の為だけに引き起こした、愚かな戦争だった。思えば関わった遍く全ての者が否応なく傷付き、多くの人間の死と哀しみの中に在りながら、何一つ生み出すものを持たなかった――それは悲劇というにも余りに哀しい出来事だった。
 時に、西暦2015年。人類が、 <使徒> と呼称される正体不明の存在の襲撃を受けたことから始まったこの一連の事件は、黒幕として存在していた秘密結社 <ゼーレ> 、その尖兵でありながら反乱分子となった特務機関NERV、そしてその両者に駒として扱われつつも、どの陣営にも属さない個人として立ちあがった <チルドレン> の3者が、それぞれの主張と未来を掲げ最終戦争に突入。
 結果、人型汎用決戦兵器エヴァンゲリオンを操る <チルドレン> が、 <ゼーレ> 側の最終兵器である9機の量産型エヴァンゲリオンを死闘の末、撃破。そしてNERVと <チルドレン> 、両者の和解によって一応の終結をみた。

 ――2016年12月。
 特務機関NERVは、裏死海文書と呼ばれる機密資料と秘密結社ゼーレに関する情報を世界に公開。同時に世界を救った英雄としての <チルドレン> を前面に押し出すことにより、マスメディアと世界の目を誘導・撹乱し、これによって一部の上層部のみが知る真実を巧みに隠蔽した。
 そしてNERVは、遺伝子工学、電子工学、未だ解明されていないエヴァンゲリオンを含めたオーヴァ・テクノロジー等々の管理・研究をその存在意義とした方向転換を図り、全てに決着をつけた。
「本来ならば、死を以ってすら償いきれぬ大罪を私は犯した。それが清算できるとは思っていない。だが、今は生きてやらねばならんことがある。それ故、私の命に今暫くの猶予を与えて欲しい」
 NERVの最高責任者として引き続き組織の指揮を採ることとなった碇ゲンドウが、実の息子を含む3人の <チルドレン> たちへ向けた言葉である。
「無論、お前たちにも出来る限りの謝罪と償いをしなければならないと考えている。私、延いてはNERVとして出来ることがあれば、何なりと申し出て欲しい。一連の災厄の渦中に在り、計り知れない苦渋を強いられたお前たちだ。その権利と資格がある。またNERV総帥として、お前たちの将来的な身分と安全の保障は約束する。綾波レイ、惣流・アスカ・ラングレー、そして碇シンジ。今後は、自らの赴くまま自由に生きて欲しい」

 だが、彼ら3人の <チルドレン> に、かつてのありふれた日常が戻ることはなかった。NERVの巧みな情報操作とイメージ戦略、プロパガンダなどにより、 <チルドレン> は生きながらにして世界の伝説となっていたのだ。14歳の少年少女が自らの命を賭し、使徒と呼ばれる外敵と <ゼーレ> と云う名の根源悪を葬った。誰もが熱狂せざるを得ない、飛びきりの美談であった。
 また、NERVのスーパーコンピューター「MAGI」システムによってレコードされていた彼らの戦いの記録は、都合よく編集された挙げ句世界中にばら撒かれ、この地球圏規模で蔓延する <チルドレン> フィーバーに更なる拍車をかけた。
 題して『新世紀エヴァンゲリオン』。人類を代表して少年少女が巨大ロボットを駆り、悪の秘密結社の野望を打ち砕くという、典型的な勧善懲悪型の物語として全世界で放映されたそのノンフィクション・ドラマは、たちまちにして巷の話題を掻っ攫い、伝染病の様に人々を熱に浮かせていった。
 今や3人の <チルドレン> たちは、世界で最も有名なアイドルにして、世界を救った救世主であった。だが、それは同時に、彼らの周囲に及ぶであろう危険の度合いが増したことをも意味した。
 各国の諜報機関は、人造人間エヴァンゲリオンの兵器としての可能性と、そのパイロットが持つ情報に常に関心を示していたし、象徴的存在となった <チルドレン> は過激派やテロの恰好の標的になる。その本質が客寄せパンダであろうと、虚像であろうと関係がない。名声と共に、彼らは確かにVIP待遇を手に入れたのだ。既に、彼らの周辺警護はアメリカ合衆国大統領のそれを凌ぐほどのものになっている。
 しかし、それは <チルドレン> が常に死と隣り合わせの日常の中で生きていくことを余儀なくされたという、何よりの証しであった。


■西暦2017年12月19日 火曜日
 第三新東京市 ジオフロント NERV本部
 技術開発部・主任執務室


 控えめなノックをして入室の許可を告げる声が返るのを待ってから、碇シンジはドアを潜った。圧搾空気が抜ける音と共に開いたドアの向こうからは、芳しい紅茶の香りが漂ってくる。前主任は珈琲――しかも、地獄のように熱いブラック――を好んだようだが、どうやら新しきこの部屋の主は紅茶党らしい。それが何となくイメージ通りだったので、シンジは密かに微笑を浮かべた。今や世界の少女を魅了する微笑である。
「テスト、お疲れ様。シンジ君」
 椅子を反転させてシンジを迎え入れたのは妙齢の女性だった。子供のように無垢な瞳と、清潔感の漂うショートカットの黒髪が印象的だ。相貌は極めて整っているが、麗人佳人というよりは可愛らしいという表現の方がシックリくるタイプである。
 歳の頃は恐らく20代前半。学生か、短大を卒業したてのフレッシュウーマンといった感じだ。少なくとも、技術部主任のプレートをぶら下げた部屋の主――と聞いてイメージするような人物からはほど遠い。
 だが彼女こそ、 <電子工学界の至宝> と謳われた赤木リツコ前主任の後を継ぎ、新生NERVの技術開発部主任を任された伊吹マヤその人である。聞くところによると、今年でまだ26歳。大概の人間は伊吹マヤのその年齢と容姿を見て二重に驚くが、それでもその才と実力を知る身内の人間たちは、彼女に与えられた評価と地位に疑問を抱くことはない。知る人間ならば、天才赤木博士の後任を任せられるのは伊吹マヤを置いて他にいないことを理解しているのである。彼女は実際それだけの才女だった。
「あ、そうだ。丁度お茶を淹れたのよ。アッサムティ。飲む?」
「え……あ、はい。いただきます」
 ぽふっと手を打ち合わせて嬉しそうに問うマヤに、シンジは軽く頷いて応えた。前任の赤木博士も部屋に招いたシンジに良くコーヒーをご馳走してくれたものだが、彼自身は、やはりコーヒーより紅茶の方が好みだ。
 そう言えば、記憶が確かならファースト、セカンドチルドレンの2人も紅茶の方を好んだ筈。個性と性格が著しく異なる3人の <チルドレン> にして、これは唯一の共通点かもしれない。

「それにしても、マヤさんの部屋っていつお邪魔しても綺麗ですよね」
「えっ、そうかしら?」
 ティーカップに紅茶を注ぎながら、マヤはどこか恥ずかしそうに肩を竦めてはにかむ。こういった何気ない仕種や表情も、彼女の若さと愛らしさを際立てるのに一役買っていた。もっとも、本人意識してやっているのでないからこそ意味と効果があるのかもしれないが。
「リツコさんの部屋はもっと乱雑でしたし、ミサトさんやアスカに至っては……」
 言いながら、シンジ少年は項垂れた。よくよく考えてみれば、自分の周囲で整理整頓の4文字を知っている女性はほとんどいない。赤木女史は非常に合理的な性格をしていて、作業に支障が出ないならば特に神経質に整理を心掛ける必要がないというようなタイプだったし、セカンドチルドレンであるアスカ・ラングレーもあまりその辺りには気を配る性質の女性ではない。
 かつての同居人兼保護者であり、今は <適格者安全保障室> という部署の室長を勤めている葛城ミサトに至っては、玩具の片付け方を知らない幼児より始末が悪い。ゴミ溜めの中でもゴキブリのように平気で生活していける剛の者なのだ。
「綾波はもともと散らかす程モノを持ってないから分からないけど、わりとその辺には無頓着なところがあるし。僕、マヤさんがいなかったら女性への歪なイメージを抱いたまま大人になってたかもしれません」
「そう? ありがとう」
 誉められたのだと解釈したマヤは、何故か頬を赤らめつつ礼を言った。そして悪戯っぽく笑う。確かに、NERVには外見だけは美しい女性なら大勢いるが、どうにも人格破綻者やら社会不適応者が多い。しかし、それらの欠点が彼女たちのある意味での魅力ともなっているから不思議なものだ。

「それにしても早かったわね、シンジ君。もっとゆっくりしてきても良かったのよ?」
 シャワーを浴びたのであろう、まだ乾ききっていないシンジの黒髪を見ながらマヤは言った。彼は先程まで『シンクロテスト』と呼ばれる作業に駆り出されていたのだが、この一風変わったテストではLCLという特殊な液体に身体を浸す必要がある。そのせいで、テスト終了後、彼ら <チルドレン> は必ずシャワーを浴びてこのLCLを流し落とすことになっているのだ。
「いえ、なんだか大切なお話しなのかなって思いましたから」
 そう言って微笑むシンジは不思議な魅力に満ちていた。彼も、もう16歳。今年で中学も卒業である。去年辺りから身長も急速に伸びはじめ、初めてNERVに現れた2年前からすると30cmは成長したかもしれない。両親ともに長身だったこともあり、既に170後半辺りまで達しているだろう。少なくともその点に関しては、当時の面影はまるでない。
 だが、ホッソリとした線の細さや中性的な相貌と雰囲気は相変わらずで、こうして黒髪を湿らせて儚げな微笑を浮かべると、麗しの少女もかくやというほどの不思議な艶のようなものがある。エヴァで実戦に出ていた14歳の頃は、その後ろ向きな性格と頼りなさに打ち消されていた部分も、そろそろ色気に変わってくる年頃ということだろう。

「マヤさん……?」
「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事しちゃって」
 思春期の少年少女の変貌と成長の早さに、どこか感動にも似た感慨を抱いていたマヤはシンジの言葉で我に返る。そして慌てるように居住まいを正すと改めて彼に向き直り、淹れたてのティーカップを手渡した。
「それで、お話しってなんでしょうか?」
 勧められた椅子に腰を落とし、一口紅茶を飲んで場を整えるとシンジは切り出した。元々、シンクロテストの後で自分の部屋に来て欲しい、と言い出したのはマヤである。シンジはテストの結果に関することか今後の方針についてか、とにかく事務的な話だと思っていたが、雰囲気からするとどうも違うらしい。
「うん、それなんだけどね。渡したいものがあって。お手紙なんだけど」
「手紙……ですか?」
「あ、ファンレターを預かったとか、そういうものじゃないから安心して」
 手紙と聞いて怪訝な表情をするシンジに、マヤは慌ててそう取り繕った。望まずして伝説のアイドルに仕立て上げられたシンジたち <チルドレン> には、毎日毎日、貨物トラックを貸し切らねばならないほどのファンレターが届く。生来、非常に生真面目な性格をしているシンジは律儀にその全てに目を通し返事を出していたのだが、増加の一途を辿るファンレターの山を前に今ではその作業も追いつかないのが現状だった。

「えっとね……これ」
 マヤはコンソールに備え付けてある引き出しの鍵を開け、そこから1通の白い封筒を取り出した。その取り扱いの丁重さと来たら、ラブレターやファンレターどころの騒ぎではない。国家機密に関する秘密文書をやり取りするように慎重である。
「ちょっとした知り合いの方から預かったの。勿論、私は読んでいないけれど、でも書かれている内容は大体知ってるわ。相談を受けたから」
「そんなに大事なものなんですか?」
 封筒を受け取ったシンジは、緊張の面持ちで言った。手紙とマヤとの間で落ち着きのない視線を何度も往復させてオロオロしているあたりは、14歳の頃とほとんど変わっていない。進歩していないと言うべきか。
「そうね……差出人のご家族にとっては、非常にシリアスな内容だわ。その意味でとても大切なお手紙よ。だから、他にも色々な人からファンレターを貰うでしょうけど、それは優先して読んであげて欲しいの。勝手を言っていることは分かってるわ。だけどお願い、どうかそれを一時も早く読んで内容を真剣に考えてあげて」
 そう言ったマヤ自身の姿勢と態度も、極めて真摯で真剣なものだった。彼女が冗談でこんな手の込んだことをする女性でないことはシンジが1番良く知っている。伊吹マヤがシリアスだと言うのならば、それは本当に急を要する大事なのだ。だからシンジは丁重に頷いて見せた。
「分かりました。今、この場で封を解いて読んだほうがいいんでしょうか?」
「いえ。その必要はないわ。そうね、どちらかというと1人の時、ゆっくりと時間をかけて読んだ方が良いかもしれないわ」
 マヤはそこで一端言葉を切ると何かを逡巡したのか暫くの間を置き、そして再び口を開いた。

「実は、シンジ君に渡したものと同じ内容の手紙をあと2通預かってあるの。もともと3人の <チルドレン> 全員に宛てて書かれたものなのよ。だから同じ手紙をアスカとレイちゃんにも渡すことになるわ。今日はシンクロテストでNERVに来ているのがシンジ君だけだから先に渡したけれど、明日中には他の2人にも私が直接手渡すつもりよ。そうしたら3人揃って相談してみるのも良いかもしれない」
「分かりました。事情はまだ良く分かりませんが、家に帰ったら必ず読みます」
 シンジは純白の封筒に視線を落としながら言った。その封筒の表側には、宛て先として「サードチルドレン 碇シンジ様」とある。手書きだったが、整った綺麗な文体だった。裏返すと差出人の名が記されており、そこには「神城 ユウコ、ケンタ」とあった。姉弟か、或いは夫婦か。どちらにせよ聞き覚えのない名前である。もっとも、マヤと共通した知人友人であるなら、彼女からそのことを予め告げられたであろうから、それはある意味当然だった。
 その時点で、確かにシンジと神城両氏との間に接点はなかった。そして、この1通の手紙がなければ生涯交わることのない両者だっただろう。だが数ヶ月の後、その2人の名がサードチルドレン碇シンジにとって生涯忘れ得ぬものとなることを、彼はまだ知らない。


■同日 18時32分
 第三新東京市 天井都市


 第三新東京市は、次代遷都計画によって旧世紀の神奈川県箱根は芦ノ湖周辺に建設された計画都市である。都市自体はそう大きなものではなく、市の直径は約2キロメートル。左右を逆にした南米大陸に似た形状をしている。これが、芦ノ湖の最北端から北へ真っ直ぐ繋がるようにして位置しているわけだ。俯瞰してみれば、第三新東京市と芦ノ湖を合わせたシルエットは、恐らく受話器の断面図のように見える筈である。
 その第三新東京市だが、これは大きく3つの特徴を持っていることで有名である。1つは、スーパー・コンピュータ <MAGIシステム> によって、市全域が管理・監視されているということだ。空調システムから、インテリジェントビルの警報装置、果ては水洗トイレの水量調節まで、あらゆる全てがこの巨大なスーパーコンピュータに最終的には接続され、制御されている。
 また、 <MAGIシステム> が管理しているのは、なにも物理的なシステムだけではない。その管理運営の範囲は、人間社会のシステム――即ち、市政にまで及んでいるのだ。無論、人間による執政官や役人は存在する。だが、最終的な決定はこの <MAGIシステム> に委ねられるのである。少なくとも、コンピュータシステムがここまで市民の生活と社会基盤に深く関与する例は他にない。近未来モデル都市として、この街が世界的にも注目を集めている所以である。

 第2の特徴は、ジオフロントの存在である。実は第三新東京市の地下には、天然の巨大な地下空洞が存在しているのだ。その規模というのがまた尋常ではなく、市の直径2キロメートルに対し、ジオフロントの直径は6キロを超える。この広大な地下空間は本来球形をしていたそうだが、その大部分――80%前後――は土砂に埋もれている。そのせいで現在、この空間はドーム型をしているわけだ。
 ジオフロントとは、この地下空間に建設された大深度地下都市の総称である。碇シンジを含 <チルドレン> たちが所属する機関、NERVの本部もこのジオフロントの一部で、地上とはリニア式のモノレールやカートレインで接続されている。勿論、その性質上一般人が許可なく出入りできる場所ではないが、第三新東京市の大きな特色としてこのジオフロントの存在は広く知られているのである。

 そして、第3の特徴として挙げられるのが要塞都市としての側面である。いや、側面ではなく実体と言うべきか。この街がNERV本部を擁し、 <MAGIシステム> の監視網によって市全域がカバーされているのも、全ては使徒迎撃用要塞都市としてこの街が建造されたからに他ならない。
 林立する高層ビル郡は兵装ビルと呼称される代物で、内部にはミサイル発射装置やエヴァンゲリオン専用の武器を収容しているし、メインストリートを歩けば、街の至るところにビルを固定するためのロックボルトカバーやエヴァンゲリオンへの電力供給を目的としたソケットなどを目にすることになる。
 このように、第三新東京市とは全てにおいて特異な都市であると言わざるを得ない。市民住人も、ほとんどがNERVの関係者かその家族で構成されているという事実をみても、それは明らかである。
 そんな第三新東京市の北側――ノース・ブロックに、閑静な高級住宅が立ち並ぶ一帯がある。戦争終結後、同市中心部には各行政機関の本部や重要施設、大企業の高層ビルなどが林立するようになり、それに伴なって権力者たちも――そう多数ではないが――、市内に居を構えるようになった。勿論これは、少なくとも使徒襲来の危険がなくなり、要塞都市としての側面が弱まったからである。そんなこともあって、この街のノースブロックは、そうした一部の権力者や富豪たちが居を構える第三新東京のビバリーヒルズ的位置付けにあった。
 その高級住宅街から更に北上すること、約300メートル。ここまで来ると、辺りの景色は山に隣接した街外れといった様相を更に色濃くする。周囲に民家はほとんどなく、山の緑の侵食に逆らうかの如く公共の施設が幾つか点在しているだけだ。事実、これ以上行くと街は終わり、変わって広大な地方駐車場に至るのみである。
 そんな辺鄙な場所に、 <コンフォート17> という名の高級マンションがあった。西側に市立医療工学試験場、東側に税務所、そして背後となる北側には山と、これらに三方其々を包囲されるように立つ12階建て全158室のモダンな高級住宅だ。そして、このマンションこそがNERVによって用意された、 <チルドレン> たちの住家である。

 その日NERVを出たシンジは、防弾その他の特殊処置を施された専用リムジンでこのマンションまで送られて帰った。今では他の <チルドレン> 同様、このリムジンで護衛されながらでしか満足に外を出歩くこともできない。中学校への登校の際も、放課後の下校の際も、NERVへの出勤の時も。常にこの専用リムジンでの送迎が原則となっている。決して望んだわけではないというのに、手にした名声の代償として、彼はこの不自由な生活をもう2年も強いられていた。
 158もの部屋があるにも関わらず、このコンフォート17が抱え込んでいるのはたった4人の住人だけだ。11階の『A−2』号室から『A−3』『A−4』『A−5』と横並びに全4部屋。これらは、安全保障室の室長である葛城ミサト、セカンドチルドレン=惣流・アスカ・ラングレー、サードチルドレン=碇シンジ、ファーストチルドレン=綾波レイ其々に与えられた3LDKの個室である。
 要するに <コンフォート17> とは、 <チルドレン> とその保護者兼護衛責任者にのみ与えられた専用住居なのだ。実際は、24時間態勢で彼らの護衛につく職員たちが多数ここで生活しているが、ほとんどの場合彼らはその姿を見せない。あくまで影に徹する彼らなのであった。
「はあ……なんか疲れたな、今日は」
 日が沈みかけた頃漸く部屋に帰りついたシンジは、そのまま真っ直ぐに寝室に向かって、ベッドに腰を落とした。そして天井を見上げ、大きく吐息を洩らす。
 シンクロテストと呼ばれる一連の作業にはもう慣れっこなのだが、何故だろう。今日は疲労の度合いが濃い。マヤから些か重い話を聞いたせいか、いつものようなフィジカルな部分の疲労ではなく、気疲れといった感じだ。
「もう6時半か」
 ベッドサイドに置かれた小さな目覚まし時計を一瞥して、シンジは呟いた。少し休みたいところだが、こんな時間とあっては小休止することすら許されそうにない。なにしろ19時になれば生活無能者3人娘――1人、娘と言うには歳を食いすぎている者がいるが――たちが、夕食をたかりに襲来してくるはずだ。
 きっと彼女たちは、自炊という概念を遺伝子レベルから排除しているに違いない。シンジは思う。空腹を覚えた3人娘たちは、毎日決まった時間になると地獄から甦った亡者のような足取りでゾロゾロとシンジの部屋に集結してくる。そして血走った目で催促するのだ。エサをくれと。
 彼女たちにとって、食事とは「シンジが作るもの」という絶対の定理が成り立っているらしい。

「本当、マヤさんみたいな人が側にいてくれなかったら、絶対僕は女の人に偏見持ってたよ」
 シンジは諦め混じり溜め息と共にそう呟いた。女性は長い間――そして今もなお『社会に出ることなく、家で家事育児をするもの』という古い慣習と闘ってきたと言うが、シンジに言わせればそれと闘っているのは、なにも女性だけではないということになる。
 炊事、洗濯、そして掃除。家事という家事を3人娘から押し付けられて育った彼は、女性が家事をしている姿を1度も見たことがない。勿論、それには生まれて間もない時に母親を亡くしたということも原因しているが、最も重い責任を背負うべきは葛城ミサトという究極のズボラ女の存在だ。
 そんなことを考えていると、玄関の扉が外側から勝手に開かれ、件の家事能力を致命的に欠いた女たちがドヤドヤとシンジの部屋に入り込んできた。もはや慎みだとか遠慮だとかいう概念はない。勝手知ったる他人の我が家。彼女たちは、シンジのプライヴェート・ルームを大衆食堂かなにかと勘違いしているに違いない。
「おーい、シンちゃ〜ん。どこ? ご飯まだ〜? エビチュは? もう、帰ってるんでしょ? チャッチャと出しちゃってちょうだい。私、お腹すいてんのよう」
「ばかシンジ!何してんのよ。もうすぐディナーの時間よ!? 早くご飯を出しなさい!」
 リヴィングの方で、テーブルをバシバシ叩きながら無遠慮に騒ぎたてる女たちの声が聞こえてくる。勿論、声の主は葛城ミサト(32)と、セカンドチルドレンであるアスカ・ラングレーの2人だ。既に、彼女たちは食事のスタンバイを完了しているらしい。当然のことだが、この場合のスタンバイとは即ちエサを貪り食う準備のことであって、夕食の調理や準備とはキッパリ一線を画す。ほとんど妄執にとりつかれた餓鬼か強盗なみの図々しさだ。
「僕って、もしかすると可哀相なのかもしれない」
 シンジはあんまりな女性たちの暴挙にエグエグ泣きながら、それでもエプロンを装着しつつキッチンに向かうのであった。


■約1時間後 19時57分
 コンフォート17 11−A−4号室


「ふぅ〜、食べた食べた。ごちそ〜さまでした」
 葛城ミサトは、満腹になったお腹を撫でながら上機嫌で言った。爪楊枝を口の端に咥え、ほとんど胡座に近い恰好で椅子にグデンと座り込むその姿は、百年の恋も一瞬にして砕け散りそうなとてつもない行儀の悪さを醸し出している。
 背中まで伸びる艶やかな黒髪。そしてしばしばノーベルが発明した、かの有名な爆薬にも例えられる抜群のプロポーションと非常に整った相貌。外見だけすれば、彼女は確かに誰もが認める超一級の美人である。だが、それはあくまで外見だけの話。これに騙されてはならない。ズボラでガサツ、おまけに家事全般は壊滅的にダメ。そんな、生活無能者を絵に描いたような女性が、葛城ミサトの本性なのだ。
 だがそれでも、彼女はシンジたち <チルドレン> にとって、掛け替えのない存在である。彼女は2年前、シンジがこの第三新東京市にやって来て以来、 <チルドレン> の保護者役を引き受けてきた人物だ。チャランポランさに目を瞑れば、陽気で明るいお姉さんといった感じの好人物で、確かに親しみやすい。彼女のその楽観的な性格は、戦争中の暗い生活の中では一種の清涼剤の役割を果たしていた程だ。しかも、こう見えて彼女は元NERV作戦部部長という要職に着いていたエリートで、使徒戦争終結により作戦部が解体されてからは、新設された <適格者安全保障室> の室長を努める才女であったりする。
 この <適格者安全保障室> というのは、新生NERVに新しく設けられた保安部対テロ対策課に属する特殊部署で、 <チルドレン> をテロをはじめとする様々な危険から守るための、言わば専属ボディガード部隊である。彼女は32歳の若さでその初代責任者として選任され、特務機関NERVでも5本の指に入る大きな権限を手に入れている。そしてその才と絶え間ぬ努力により、日々 <チルドレン> たちの身の安全を守っているわけだ。

「いやあ、今日もとっても美味しかったわん。さっすがシンちゃん」
「そうですか?」
 その日、時間と体力をなくしていたシンジが夕食に作ったのは、ミートスパゲティだった。これにオニオンスープとサラダを添えるという、彼にしてみれば実に手軽で簡単なメニューである。言ってしまえば手抜きだ。だがシンプルであるが故に、腕の違いがはっきり出てくるのが料理というものである。料理の鉄人・碇シンジは、今夜も食卓でそのことを証明していた。
「そうね。簡単なものばっかりだったけど、でも文句なしに美味しかったわ」
 そう言って珍しくシンジを誉めたのは、セカンドチルドレンとして有名な少女だった。名を、惣流・アスカ・ラングレー。その類稀な素質ゆえに幼くから <天才> と称されてきた少女である。
 ゲルマンの血を引く彼女は、見る者に黄金の滝を連想させる見事なブロンド、珊瑚礁の鮮やかな蒼を湛えた瞳、そして16歳でありながらほとんど完璧とも言えるほどのプロポーションを併せ持つ。しかもそこに、母親の日本人の血がなせる業か、年相応のイノセントな魅力が加わるのだ。もはや誰を連れてこようが彼女に匹敵し得る魅力を備えた少女はいないだろう。
 更に彼女は、シンジと同じ学び舎にありながら、既にマスタークラス(修士課程)を収めているという才女でもある。そして致命的な決定打となるのが、セカンドチルドレンであるという世界に通用する強烈なスター性だ。これにヤられない男の子は、まずいないだろう。地球上に存在する全ての少年たちが、理想に描く麗しの少女。それがセカンドチルドレン、惣流・アスカ・ラングレーなのである。

「お粗末さまでした、ミサトさん。それにアスカ」
 こと料理に関しては賞賛されることに慣れきってしまったシンジだが、それでも自分の料理を美味しく平らげてくれる人間たちの存在はありがたいものだ。疲れていても、それだけは変わらない。彼は笑顔で2人に応えると、静かにフォークを置いた3人目の女性にも評価を問うてみることにした。
「綾波はどう? お口にあったかな? 綾波は肉が駄目だから、特別にソースを変えたんだけど」
「……おいしい」
 綾波と呼ばれた少女は、短くそう答えた。素っ気無く無愛想にもとれるが、その言葉が彼女にとっての最大級の賛辞であることをシンジは知っている。彼女は、必要とされること以外はほとんど口に出さない、とても寡黙な少女なのである。
「碇君の料理は、いつも美味しい」
方程式の決まりきった解を告げるような口調で、彼女は言った。シンジにだけ分かる、本当にささやかな微笑と共に。
「そう。良かった、喜んで貰えて」
 ファーストチルドレン綾波レイがこのように微笑みを浮かべるようになったのは、果たしていつのことだろうと、シンジはふと思った。それは決してそう遠い過去の話ではない。
 積極的で、健康的で、能動的で、そして明るい。太陽のようなアスカとは対照的に、綾波レイは酷く儚い印象を抱かせる少女だ。少なくともエネルギッシュという言葉からは程遠い。良く彼女をイメージするものとして、夜空に浮かぶ月が挙げられるが、シンジはその感覚に深く同意している。 その蒼銀の髪も、深紅の瞳も、透けるように白い肌も、どれもが目を離すと消えてしまいそうな彼女の印象を形成するのに一役買っているのだ。儚くて哀しい月のように。

「ああ、いっけない。もうすぐ8時じゃない?」
 シンジの思考は、突如騒ぎ始めたミサトの叫びによって乱暴に中断された。彼女は、リヴィングの白い壁にかけられた丸い壁掛け時計を見て、何やら時間に迫られていることに気付いたらしい。30超えても、未だに落ち着きのない女性だ。
「どうしたんですか、ミサトさん」
「どうしたもこうしたもないわよ! あと2分で、ドラマの最終回が始まっちゃうの!! 毎週欠かさず見てたやつなのよう!今日見逃したら、哀しみのあまりお嫁にもいけなくなっちゃうわ!!」
 彼女が結婚できない原因はもっと別のところにあるような気がしたが、賢明なシンジはそれを口に出して指摘することをしなかった。アスカも同様である。ただひとりレイだけは、TV番組を見逃すことと婚姻が如何関連するのか首を捻って不思議がっていた。
「じゃ、私は部屋にもどるから。また明日ね」
 そう言うと、返答をまたずしてミサトは慌ただしく走り去っていった。もちろん飲みたい放題飲んだビールの空き缶も、食い散らかした食器類も放置したままで、である。言ってしまえば、ほとんど食い逃げに近い。この辺りの行儀の悪さが葛城ミサトのキャラクターを何より雄弁に物語っていた。
「んじゃあ、あたしもそろそろ部屋に戻るわ。オフロにも入ってないしね」
 そう言うと、続いてアスカが席を立った。彼女は最低限の礼儀として、自分の食器類を流し台まで運んでいったが、決して洗って片付けるまでは手を出さない。そういう面倒事は、シンジの仕事であると割り切っているのだ。勿論、一方的にではあるが。
「それじゃ、お休み。シンジ、ファースト。夜更かしするんじゃないわよ」
 ヒラヒラと手を振ると、アスカは踵を返しサッサと自室に戻っていった。

 綾波レイはその身体の細さからも分かる通りの小食で、また草食動物のようにゆっくりと咀嚼して食する人間でもあるため、食べる速度が非常に遅い。ミサトが豪快な食べっぷりでご馳走を完璧に平らげても、彼女はまだ半分も箸を進めていないというのが常である。
「じゃあ、綾波。ボクは寝室で休んでいるよ。食べ終わったら食器類は適当に置いておいて。後で洗っておくから」
 綾波は無言で頷いて、シンジを見送った。結局、彼女が食事を終えて帰宅の旨を伝えるためにシンジの寝室に顔を覗かせたのは、それからたっぶり1時間経った後のことであった。シンジをしても、ちょっと時間がかかり過ぎなのではないかと思わせる程の遅さであったが、それにはそれなりの理由があった。
「……食器、洗っておいたから」
 他人の変調を動物的勘で察知するのが得意な彼女は、きっとシンジの疲労に気付いていたのだろう。少しだけ開いたドアの隙間から、姿を見られるのを恥ずかしがるように――実際そんなことはあり得ないのだが――少しだけ顔を覗かせた彼女のその言葉に、シンジは目尻に涙を溜めながら思わずこう呟いたという。
「女神様だ」


■同日 21時47分
 コンフォート17 11−A−4号室
 碇シンジ宅 ベッド・ルーム


 結局、シンジが伊吹マヤから手渡された例の手紙に手をつけることができたのは、高校で課せられたホームワークを追えた22時も間近になった時分だった。 <チルドレン> 及びその保護者の家事全般を担当している彼であるが、その本職は高等学校の生徒。立派な学問の徒なのである。
「なんか……ドキドキするな」
 シンジは学習机でホームワークを片付けた恰好のまま、黒の学生鞄から白い封筒を取り出すと呟いた。相変わらず無用なプレッシャーを作りだし、それに勝手に緊張し出すという悪癖は健在である。彼の気の弱さをよく現している。
 シンジは、とりあえず差出人の名前をもう1度確認してみることにした。本部で手渡された時にも見たとおり、電気スタンドの蛍光灯の明かりに浮かび上がるその名は、神城ユウコ、ケンタと記されてある。署名以外には何の記述もなく、彼らの住所や郵便番号は分からない。名前にも聞き覚えの無いことから、当然にして差出人の正体を窺い知ることは困難だった。だがこれで何か問題が生じたなら、後日マヤに聞いてみれば良いだろう。そう考えて、シンジは取り合えず内容を確かめてみることにした。
 ペン立ての中からペーパーナイフを探し当てると、それを使って丁寧に封を破る。そしてシンプルな純白の封筒から、淡い水色をした便箋を抜き出した。綺麗に折りたたまれた手紙は合計3枚。蛍光灯に封筒を透かして確認したが、それ以上のものは入っていなかった。
 パステルブルーの便箋に認められた文章は、封筒と同じ筆跡によるものだった。書道の心得でもあるのかもしれない。澄んだ小川の流れを連想させるその綺麗な文字を見て、書いたのが女性ではないかとシンジは推測した。
 サードチルドレン碇シンジ様――からはじまり、冒頭語、前文と丁寧な構成。このあたりで、既に同年代の女の子たちが送り寄せてくるファンレターやらラブレターやらとは一線を画す。だが、それ以上にシンジを驚かせたのは、その内容であった。流れるような美しい筆跡で書かれたその手紙には、1人の少年のことについて書かれていた。
 彼の名は、神城ユウタ。7歳になる差出人夫妻のひとり息子であり、そして白血病という病に犯され闘病生活を続ける重患であるらしい。続く内容によると、その子はもう4年間もこの重篤な病と闘いつづけており、現在は死の危険性にも晒されているという。助かる道は <骨髄移植> しかないのだが、ドナーが見つからずに途方に暮れているというのが現状らしい。
 この手紙を要約すれば、 <チルドレン> の大ファンであるその白血病の少年に是非とも会って、彼を勇気付けてやって欲しいというものであった。息子が憧れるサードチルドレン碇シンジに、会わせてあげたい。死の危機に貧した今だからこそ、どうしてもその願いを叶えてあげたい。両親として、たったひとりの息子を想う、その真摯な気持ちがその手紙には綴られていた。
 気付くと、手にジットリと汗をかいていた。呼吸も少し早い。シンジはキッチンに向かい、冷蔵庫から取り出したスポーツ・ドリンクで喉を潤すと、再び寝室に戻った。そして高鳴る動悸を抑えながら、合計6回にも渡り、その手紙を読み返した。
 手紙の最後の1枚に記された、新城家の住所と電話番号、そしてユウタ少年が描いたと思われる『エヴァンゲリオン初号機』の拙い落書きを見た時、シンジは決意した。そして生涯で初めて、相手の都合と夜分であることを考慮せず、電話の受話器を取ったのである。
 ――数ヶ月後、この件は地球圏規模の大騒動となって世界を震撼させるのであるが、その時のTVインタビューで碇シンジはこの時のことをこう語っている。
「いつもの僕らしくないんですけど、何故だかこの時、迷いはありませんでした。しなくちゃならないことは分かっていたし、こんな風に、大人の打算や欲望が絡まない無邪気で純粋な心から誰かに必要とされたのは、きっとはじめてのことだったと思うから」


to be continued...



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