五線譜1

「ビクターレコードデビューとその後」


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時代 事象
1976年 8月25日、ビクター・フライングドッグ・レーベルより『メッシン・アラウンド』を発売。レコード会社の予想を上回る売上となる。サポートメンバーは、塩次伸二、内田勘太郎、近藤房之助を初め、その他、当時活躍していた多くのブルース・ミュージシャンが総結集してバックアップ。
第一期ローラーコースターは、解散状態。
毎年春の東京でのブルース恒例行事、日比谷野音でのコンサート「スプリング・カーニバル」に出演する。これは、上京した小出斉氏が初めて観たコンサートでもあった。
1997年 2ndアルバム『ブギ・タイム』 発売。 期待に反し売れなかった。しかしホーンセクションも加え、かつソングライティングも行った意欲作。吾妻光良、泉谷しげる、渡辺香津美、村上秀一と1stアルバム同様に豊富なミュージシャンが参加。
泉谷しげる&ザ・ストリート・ファイティング・ メンに参加し、ローラーコースタースケートを履いて、メットを被ったハービスト第一号となる。 髪の毛も切られ別人となる。 当時は、あんなに騒がれたブルース・ブームも完全に下火となった。
ウエストロードBB解散。 「スプリング・カーニバル」にも高中正義らのフュージョン・バンド”サディスティックス”が出演するほど。ただし、雨のため、そこまでいかずじまい。雨天中止にするか否かを決める間、司会だったセノオ氏が、ずぶ流れになりながら野球拳を決行。客席から上がったおねえちやんが、上半身ハダカになったという伝説もあった。
その後 ローラーコースターは、山崎美樹がリーダーとなって、セノウ氏は、ゲスト参加が多かった。
NTV「11PM」世界の夕陽、機関車シリーズの音楽を担当。これが、フュージョン・バンド”デイブレイク”にもつながる。
デイブレイク『DAYBREAK』(ラジオシティ)を発表。
雀荘に入浸ることがしばしば・・・
80年代前半は、ビートたけし、上田正樹、もんた&ブラザースなどの全国ツアーに参加。
1984年、ローラーコースターのファーストアルバム『That's Nothing New』を自主制作にて発売。セノウ氏手持ちの機材を使い、トラックダウンなどをセノウ氏宅で行った。なんと2間しかないアパートにグランドピアノを入れたのであった。
参考資料:『All About Ryuichiro Senoh』 compiled By Mie Senoh (1997年)