時代 | 事象 |
大学時代 | 中央大学商学部経営学科に入学する。文学部も受けているのだが、その理由は、シャンソンに惹かれてフランス語を学ぼうと考えていた。例えば、シャルル・アズナブール。「シャンソンは、(土着的なという意味で)ブルースに近いところがある。」と気づいたのは、ずいぶん後のことであった。 |
時は、東大安田講堂陥落の年(70年)。闘争の最も激しい年であったゆえ、入学しても半年間、授業が開かれなかった。仕方が無いので、ほとんど大阪に戻ってディスコ通い。 | |
生意気そうな軽音楽部は、敬遠してフォークソング研究会に入会する。正統派のカントリー&ウエスタン中心のクラブであった。ウッド・ベースを担当し、北の丸公園等で練習に励む。(ウッド・ベースは、電車で運んでいた!) | |
クラブ在籍、時なかばして、サニー・テリーやミシシッピー・ジョン・ハートを知る。 | |
1971年 | マイク・ブルームフィールドの名前に惹かれ、新宿の帝都無線で『ファーザーズ&サンズ』を中古で購入する。これでマディー・ウォーターズとポール・バターフィールドのハーモニカに決定的なショックを受ける。それまでにも、ボーカルだけでは、手持ちぶさただったから、という理由でハーモニカを吹いたこともあった。しかし、興味をもったのは、その時。 |
1972年 | B.B.キング再来日。ウエストロードとともに前座で出演し、決定的な影響を受ける。黒人のブルースに本格的にのめり込むようになり、改めて『ファーザーズ&サンズ』を聴きこむ。本格的にハーモニカをやり始めたのは、この頃。 |
アパートで一日12時間の伝説的猛練習が始る。 | |
福生でヒッピーなどをしていたその関係で、新宿の十二社にあった伝説のライブハウス「マガジン1/2」を知る。 | |
1973年 -秋- |
マガジン1/2で、幻の自主制作レコードを発表している。 そこで使用した機材は、 「マリンバンド、SONY-ECM-21マイク、ヤマハ200Wボーカルアンプ」 そして録音曲は、 Jin House Blues,Lonesome Mornin Blues,Five Long Years,Straight Boogie,Hard Hearted Woman,Got My Mojo Workinの計6曲。 ウエストロードとレイジー・キムBBが参加。 なお、「ジン・ハウス・ブルース」に日本語歌詞をつけて唄っている。 |
1974年 | 9月「オフ・ザ・ウォ−ル」を経て、ウィーピング・ハープ・セノオ&ヒズ・ローラーコースターを結成。メンバーは、セノオ、山崎美樹、川口まこと、生井邦彦。 |
初のレコーディング・セッションとなった久保田真琴と夕焼け楽団の『サンセット・ギャング』(トリオ)を発売。その後、夕焼けのステージには、よく顔を出した。 | |
11月、第一回ブルース・フェスティバル開催。ロバート・ジュニア・ロックウッド&ジ・エイシズ、スリーピン・ジョン・エスティス&ハミー・ニクスン。これによって、日本のブルースシーンも最高潮となった。 | |
1975年 | 青山VAN99ホール等で「ブルースパワー」というコンサートを主催。東西の橋渡し的な活動を続けた。 |
時期は、定かであるが、この頃ハーモニカ教室を開いた。この時の生徒に石川二三夫、田中育代らがいた。 | |
腰に下げた弾丸袋にハーモニカをセットして、そこらじゅうのセッションに現れた。 その頃の風貌と言えば、長髪、よれよれのシャツ、そしてロンドンブーツと絵に描いたような格好であった。 |