忠誠の指輪9

01.10.08改



 昔。リュミエールがまだ、故郷の海の惑星にいた頃。ふるさとの村の海をのぞむ岬の上に、
 風雨にさらされてすっかり滑らかになってしまった一つの岩があった。
 村の炉縁で語られる伝説では、その岩は、海で嵐に遭ったまま帰って来ない人を、ランプを
 掲げて待ち続け、ついに石と化してしまった村人の誰某のなれの果てだと伝えられていた。
 人は、悲しみのあまり石になってしまうのか。
 石になっても、待ち続けたい人がいるのか。
 幼いリュミエールはその伝説を聞くたびに、淡く不思議な心の痛みをおぼえた。


 そして、今。
 彼の目の前で、彼の敬愛する闇の守護聖が、石と化したように
 時空の門の前で立ちつくしていた。


 漆黒の髪を背に垂らし、暗紫色の衣に身を包んだ闇の守護聖は、自分の背後で固唾を
 呑んで見守る同胞の守護聖たちに背を向けたまま、開け放たれた時空の門の前に
 立って虚空に両手を差し伸べ、己の対たる光の守護聖がたどって戻ってこられるように、
 自分の闇のサクリアを、あらゆる時あらゆる空間に向けて放っていた。
 手のひらから、細い血の筋が流れ出すようにとめどなく流れ出していく闇のサクリア。
 彼は一昼夜の間時空の門の前から動かず、誰ともまったく言葉を交わさないまま、
 ひたすら己の対たる光の守護聖に時空を超えて呼びかけていた。


「あいつのこと、見てらんねーよ。なんとかしてやれねぇのか、ルヴァ。」
 言葉は乱暴だが感受性の鋭いゼフェルが、地の守護聖に訴える。
 ルヴァは、無言のままゆっくりと首を横に振った。
 リュミエールも、いたましさのあまりクラヴィスからそっと目をそらした。


 二日目の夕方も暮れようとしていた。
 時間帯が夜にさしかかる頃、王立研究院から地の守護聖のもとに
 古びた革製の書類挟みに挟んだ一連の書類が届けられた。
 その書類挟みを目にした守護聖たちの間に緊張が走った。
 仔山羊革製のこの書類挟みは、いつ頃から使われていた物か、
 表側に縫いつけられた紋章も時代を経てかすれ消えかかっていたが
 王立研究院からサクリアに関する重要な書類が提出される時には、
 この書類挟みを使うことが慣例となっている。
 他の守護聖たちが見守る中、報告書に目を通したルヴァは眉をひそめ、
 長衣の裾をひるがえすと守護聖たちの方を振り返った。
 地の守護聖の険しい眼差し。彼がこのように厳しい表情を見せる時は
 必ず悪いことがあることを、一同は経験上知っていた。
 あたりは、水を打ったように静まり返る。
「皆さんに告げておかねばならないことがあります。」
 地の守護聖は宇宙のサクリア分布状況が記されたペーパーを両手で握りしめ、
 語尾が震えないように、一つ一つ言葉に力を入れながら宣告を下した。
「ジュリアスがあと数刻の間に元に戻って来なければ、我々は
 王立研究院に次代の光の守護聖の探索の準備を命じなければなりません。
 覚悟しておいてください。」
 守護聖たちの間に、言葉にならない同様が走る。
 その時、地を這うような低い声がルヴァの言葉を圧するかのごとく響いた。


「…ならぬ。」
 一昼夜ぶりに口を開いたクラヴィスの声は、ひどくかすれていた。
「あれは戻ってくる…。」
 私が生きてここにいる限り、必ず。
 彼の方に歩み寄ろうとしたルヴァを、闇の守護聖は紫色の雷光が走るような凄まじい
 目つきでにらみ付け、余人を近づけまいとするように時空の門の前に立ちはだかった。
 闇の守護聖の蒼白な顔に、サクリア風にあおられた黒髪がまとわりつき、
 激しい嵐のさなかにいるような壮絶な印象を与えた。
 夜の帳の如き黒衣のマントを、音を立てて翻すと。
 クラヴィスは時空の門の中に半ば以上身を乗り出し、虚空に向けて叩き付けるように
 莫大な量の闇のサクリアを解放した。
 一か八か。現在身の内にある己の闇のサクリアを一度に解き放って己の身を
 閃光弾のように輝せ、対たる守護聖に呼びかける。
(ジュリアス…! ジュリアス、戻って来い…!)
 クラヴィスはそのまま虚空の中へ前のめりに倒れ込んでいった。


「なりません、クラヴィス様!」
 そのまま虚空に落ち込みかけたクラヴィスを、リュミエールは衣の袖と黒髪をつかんで
 あわてて引き戻した。水の守護聖に引き戻された闇の守護聖は、だが、
 自分のおかした危険にまったく無頓着で、ただ虚空の一点を見つめるばかりだった。
 つられるよう同じ方向に視線を向けたリュミエールは、淡い星がまたたくように何かが
 一瞬輝いたのを感じた。
「あれは、まさか…!」
 ジュリアス様では、と言いかけた水の守護聖は、クラヴィスの顔に浮かんだ
 驚愕と悲哀の色を見て思わず口をつぐんだ。
「ジュリアスは、戻って来るのを拒んでいる…!」
 よほど狼狽したのか、クラヴィスの声はわずかにうわずっていた。
 一瞬のことだったが、年長の守護聖たちはクラヴィスの動揺をはっきりと感じ取った。


 光の守護聖が、己の対たる闇の守護聖の呼びかけを拒絶する――。
「そんなはずがございません。ジュリアス様は、必ず私たちのもとへお戻りになります。」
 たとえ過去のその時代に何事があろうとも。
「首座であるジュリアス様が、ご自分の責任を放棄されることなど絶対にあり得ません。」
 水の守護聖は、半ば放心状態の闇の守護聖を時空の門の縁から引き離し、
 そのまま門の前から数歩下がって、改めて肩を貸してクラヴィスを支えた。
 リュミエールの言葉に、闇の守護聖は思い当たるところがあったようだった。
 クラヴィスは紫色の目をゆっくりと閉じ、そのまま何か考えていた。


 再び目を開いたクラヴィスは、オスカーを手招きした。
 やはり一昼夜の間無言で通した炎の守護聖は、精悍な風貌に疲れの色も見せず
 燃える炎のように炯々と目を光らせていた。
 オスカーはカツン、とブーツの踵を打ち鳴らすとクラヴィスの正面に背筋を
 のばして立ち、氷青色の瞳で真っ向からクラヴィスを見据えた。
 この期に及んでも、炎の守護聖からは微塵の迷いも感じられない。
 クラヴィスには、彼がジュリアスの帰還を信じて疑っていないことがわかった。
 炎の守護聖の真の強さを、この時、闇の守護聖はまざまざと思い知った。
「…あれは、私では呼び戻せぬ。」
 クラヴィスは、胸元から衣の下につけていた銀の鎖を引き出した。
 彼は、鎖に通していた二つの指輪を抜き取ってオスカーに与えた。
 一つはオスカーも見慣れた、ジュリアスの『忠誠の指輪』。
 そしてもう一つは――。
「これは『友誼の指輪』という…。」
 ジュリアスの忠誠の指輪とうり二つの、銀で象眼された神鳥の意匠の指輪。
 ゼフェルは思わずあっと声をあげたが、闇の守護聖は無表情のままだった。
 忠誠の指輪と対になる指輪だと手短に説明するクラヴィスの
 たなごころの中で、二つの指輪が光を受けてきらめく。
「これは、光の守護聖を支えていく者が身につける指輪だそうだ。
 指のサイズが合わないのでこれまでこうして鎖に通して身につけていたが…
 お前にやろう…。」
 淡々と告げてオスカーの手に指輪を握らせたクラヴィスの手は、だが、かすかに
 震えていた。オスカーはそのことに気づいたが、あえて素知らぬ振りで押し通した。
「あれは、お前を信頼している。
 お前が呼びかければ、あるいは応えるかもしれぬ…。」
 クラヴィスはそれだけ言うと、きびすを返して時空の門の前から足早に立ち去った。
 リュミエールはあわててそのあとを追う。
 苦渋に満ちたクラヴィスの顔。
 彼が魂の底の底まで傷ついたことを、彼の側に長くいるリュミエールは察した。


(クーリィ、あなたはどこまでもジュールを支えていって)
 クラヴィスの脳裏に、幼い日、女王セラフィンがこの指輪を与えた時の言葉がこだまする。
(あれを支える役割は、もはや私のものではない…。)
 闇の守護聖は、つと足を止め、指輪を通していた銀の鎖を手のひらにのせて
 無言のままリュミエールの前に差し出す。
 水の守護聖は何も言わず、うなずいてその鎖を受け取った。
 彼は、そのまま時空の門の前に立っているオスカーの方へ向き直り、今や
 爆発的な勢いで燃えさかる炎のサクリアが誤った方向へ噴き出さないように
 水のサクリアで霧の如くあたりを包んだ。


 クラヴィスと入れ違いに時空の門の前に立ったオスカーは、闇の守護聖から
 受け取った二つの指輪のうち、友誼の指輪を躊躇なく自分の右手の中指にはめた。
 友誼の指輪は、まるであつらえたかのように彼の指にぴたりと収まった。
 オスカーは時空の門に向き直ると、右手の親指と人差し指で
 残る忠誠の指輪を高くかざし、虚空に向かって呼びかけた。
「ジュリアス様、お約束をはたしていただく時が参りました。」


 王立派遣軍を統率する者にふさわしく逞しく姿勢の良いオスカーの背中で、
 彼の生家の色である深い青のマントが、門から吹き込んでくるサクリア風に
 あおられ大きく波打っている。
 幼いジュリアスの立てた誓いの言葉を、オスカーは朗々たる声で唱え始めた。
 守護聖がその名にかけて立てた誓いは歌(まがうた)となって時空を超えて響き渡り、
 満ち潮が浦々に押し寄せていくようにあらゆる時と場所を満たしていく。
「この宇宙を救うために。
 ともにこの宇宙を救う手だてを考えるために。
 この宇宙が終わる時、扉を閉ざし、
 新たな宇宙が始まる時、扉を開くという使命のために。」
 オスカーの言葉につれて、忠誠の指輪がそれ自体生命を持つものであるかのように
 内側から輝き出した。そして指輪が一際光り輝いた時。
「我々に進むべき道を示すために。」
 オスカーは裂帛の気合いを込め、ここぞとばかり呼びかけた。
「我々のもとへお戻り下さい、ジュリアス様。」


 オスカーの呼びかけに応えるように、まばゆい黄金の光が時空の門から守護聖たちの方へ
 あたりをなぎはらうような勢いで流れ込んできた。
 輝きは、時空の門の中の人の背丈ほどのところにすっと集まり、やがて人の形を取って
 重力のない空間をゆっくりと床の高さまで降りてきた。
 オスカーが腕をのばして、降りてくる人を支える。
 オスカーの呼びかけは時空を超えて、彼らを導く首座の守護聖に届いたのだ。


「戻ってきたぞ。」
 彼らの長、この宇宙最後にして最大の光の守護聖ジュリアスが、そこに立っていた。


 ※               ※               ※


 第二百五十二代セラフィン女王の治める聖地に、夕闇が迫っていた。
 ジュリアスは、幼いクラヴィスが再び健やかな眠りに落ちるまで
 あれからずっと側に付き添っていた。
 幼いクラヴィスの寝顔を見守るジュリアスは、いつになく感傷的な気持ちになっていた。
『僕のたった一人の友だちなんだ。』
 そう言って自分の腕にむしゃぶりついてきた小さなクラヴィス。
 おそらく、自分にとっても友と呼べる存在は後にも先にもクラヴィスだけだろう、と
 言いさしたジュリアスの心の中に、ふと冷たい風のようなものが差し込んできた。
 ――いや、元友人だな。今の我らは友という間柄ではない。
 つまりは、私もそなたも、今では誰一人友がいないというわけか。
 我らは寂しい存在だな。クラヴィス。
 いつから我らの道は分かれたのであろう――
 ジュリアスは、心の中で闇の守護聖に語りかける。
 光の守護聖はたとえようもなく悲しい気分にとらわれ、そのまま物思いにふけった。
 聖地にも夜の帳が降り、ジュリアスは幼い闇の守護聖の寝室の藍色のカーテンを引いた。
 常夜灯がわりのオイルランプの油が燃える、ジジ…と低い音。
 部屋の壁に等身大よりはるかに大きな影が影絵芝居のようにゆらゆらと映っている。
 光の守護聖はもの憂げな様子で、壁に映る影にしばし見入っていた。
 ジュリアスは、幼いクラヴィスが心安らかに眠れるよう、部屋の片隅に置かれた
 青磁の香炉にそっと安息香をくべた。


「風の守護聖リュズギャル様と地の守護聖トプラキ様がお越しです。」
 伝声管で来客の旨を告げられたジュリアスは、寝台に横たわる幼いクラヴィスの方に
 素早く目線を走らせた。
「クラヴィスはたった今、眠りについたところだ。
 お見舞はありがたいが、どうかお引き取り願いたいとお伝えしてもらいたい。」
「いえ、お二人はジュリアス様にご用件がおありだそうです。」
「私に?」
 それも緊急のご用件だそうです、と告げられたジュリアスは眉根を寄せた。
「わかった。すまぬが、この屋敷の応接室を使わせてもらうぞ。」
 ジュリアスは不吉な予感に胸を騒がせながら、純白のトーガを丁寧にまき直して
 身なりを整えた。


 ジュリアスは、闇の守護聖の屋敷の応接室で、彼を訪ねてきた風の守護聖リュズギャルと
 地の守護聖トプラキの訪問を受けた。
 彼らの様子を一目見て、ジュリアスは彼らが尋常ならぬ用件で来訪したことを察した。
 リュズギャルは内心の決意を示すような、どこか張り詰めたそれでいて清々しい
 顔つきで、一方のトプラキは人目もはばからず泣いている。
「どうなさったのです、お二人とも?」
 守護聖の重鎮二人のただならぬ様子に、ジュリアスは声を低めてたずねた。


 ジュリアスのその一言で、地の守護聖トプラキははっと我に返った。
「ジュール、リュズギャルを止めて下さい!」
 トプラキは悲鳴のような声をあげて、堰を切ったように喋りだした。
「リュズギャルは…リュズギャルは自分を犠牲にするつもりなんです!
 ああ、ジュール、お願いです! 首座の権限で彼のやろうとしていることを
 阻止して下さい! 私では止められない…!」
 トプラキは絶望的な身振りで、光の守護聖に哀訴した。
 不意を突かれたジュリアスは、そのまま機械的に風の守護聖の方に首を向けた。
 風の守護聖リュズギャルは辺りを払うような凛とした声音で、自らの決意を告げた。
「ジュール、俺はエストレ星域に行く。」
 ジュリアスは一瞬我が耳を疑った。
 どういうことです? という形に彼の唇が動く。
「俺が九つのサクリアの器となって、エストレ星域の中心部でサクリアを
 解放する。」
 お前自身が前に言ったことだ。一度に全種類のサクリアを大量に放出すれば、
 強制的にサクリアバランスを回復することができるはずだ、と穏やかに告げる
 リュズギャル。
「エストレ星域の状況はこれ以上放置できない。
 時空の扉が開かず、聖地からサクリアを送り込むことはできないならば、
 サクリアを帯びた守護聖自身を、送り込むしかあるまい。」
「だからといって、どうしてあなたがっ…!」
 地の守護聖トプラキは、リュズギャルの両腕をつかんで乱暴に揺さぶった。
「俺が言い出したことだ。自分で志願するのが当然だろう。」
 風の守護聖はあっさりとした口調で言った。
 彼の瞳は、既に自分の運命を見切った人間らしくあくまで澄み切っていた。


「お待ち下さい、リュズギャル様。」
 ジュリアスの声がけわしくなった。
「危険を冒して宇宙を救おうとするリュズギャル様のお志は尊いものです。
 ですが、そのようなことを私が許すとお思いですか?
 僭越ながら、首座としてそのような提案は却下させていただきます。」
 光の守護聖は内心の動揺を押し隠し、ことさら切って捨てるような口調で言った。
 地の守護聖トプラキも、ジュリアスに励まされたように口を開いた。
「そうですとも、リュズギャル。あなたは自分を犠牲にするつもりですか?」
 ジュリアスとリュズギャルの視線が硬質の火花を散らす。
 既に覚悟を決めた男だけが持つおかしがたい気品が、風の守護聖リュズギャルを
 後光のように包んでいる。
 それに半ば気圧されながらも、ジュリアスは真っ向から彼を見据えた。
 リュズギャルは、かすかに微笑んだ。光の守護聖の心の動きを読んだように、
 首座代理の風の守護聖は絶妙のタイミングで一つの問いをなげかけた。
「ならばジュール、一つだけ聞きたい。」
「なんでしょう、リュズギャル様?」
「俺は、このエストレ星域の大崩落が収束したあとも聖地に残っていたか?」
 ジュリアスは、思わずあっと息を呑んだ。そして次の瞬間、自分が狼狽したことで
 相手にその答えがわかってしまったことに気づき、ジュリアスは青ざめた。
「どうだ? 答えろ、ジュール。」
 彼は口を開いたが、それは…と言ったきりそのまま絶句して言葉を続けることが
 できなかった。いつの間にかいなくなっていたリュズギャル。記憶を封印された
 幼い自分とクラヴィス。すべてがあまりに符合し過ぎていた。光の守護聖は、
 どうしてもリュズギャルの言葉を否定することができなかった。
 愕然としたまま立ちつくすジュリアスに、トプラキが、すがるように訴えた。
「お願いです、ジュール。リュズギャルはそのまま聖地にいたと、どうか言って下さい!」
 リュズギャルが、どこか苦笑めいた声で地の守護聖に釘をさした。
「トプラキ、ジュールを責めるな。こいつは、嘘をつけないんだから。
 俺たちがそう育てたんじゃないか。なあ?」
 地の守護聖はがっくりとうなだれた。彼は一度に十年も老けたように見えた。
 ジュリアスは、二人にかける言葉を失っていた。

(続)




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