PFM '75 来日公演ライブ・レポート その3
by 烏天狗さん


PFM 来日公演レポート〜PFM'75 その(3)

 彼らが来日したのは、彼らのホームページで確認したところ1975年11月19日だったようです。初日の渋谷公会堂でのコンサートが23日で、それまでの間はヤマハ・スタジオでデモ(クリニックとかかな?)をやったり記者会見、雑誌、TV等のインタビューに応じていたりしたものと思われます。

 なお、当時ヤマハは強力に彼らをバックアップしていた様で、ヤマハの機関紙『Feed−Back』12月16日号にて彼らの来日特集を組んでいます。(通称PFM新聞と呼ばれるものだそうで、『Marquee』誌volume 35 Nov.1990の47ページにて紹介されています。残念ながら僕も現物は見たことがありません。内容は彼らの経歴紹介と詳細ライブレポートの様です。)

 (その2)で書きましたが東京での公演日程は23日と29日の2回でしたが、雑誌(『ミュージック・ライフ』、『音楽専科』のコンサートレポートや写真は、23日のものが使われていました。また、当時の朝日新聞の文化欄でもツアー初日渋谷公会堂の模様が中村とうよう氏の文章でとても好意的に書かれています。一部引用させてもらうと、

『ステージでの演奏は、うって変わってエレクトリックなサウンドと激しいビートでノッケから圧倒した。...(途中省略)...こうしたすぐれたサウンド感覚と、きたえあげられたテクニックは至るところに発揮され、演奏にこめられた気迫とあいまって、近来にないほどの緊張感に場内は包まれた。...(途中省略)...彼らの作る曲はメロディ自体がリズムの躍動をもっていて、それはあの「フニクリ、フニクラ」の伝統なのだ。...(以下省略)』

 今もって思えばこの文章がいかに的確な文章であったがうなずけますし、2002年のライブを見たかたならばニュアンスは判っていただけるのではないでしょうか? 当然のことながらこの新聞記事を読んで29日のコンサートがいっそう待ち切れなくなったというわけです。

 さて、この時のコンサートは、

 AN UDO ARTISTS,INC.PRESENTATION 1975
 ROCKUPATION '75 第3弾

という名目で行われていて、ラジオの文化放送ではウドー音楽事務所との共同主催ということもあり、やたらロッキュペイションという言葉の入ったCMが流れていたのが思い出されます。ちなみに第4弾はディープ・パープルでした。

 1975年11月29日(土)6:30PM〜
  中野サンプラザホール

 僕が観たのは日本での最終公演でした。中野サンプラザホールは国鉄(現JR東日本)中央線中野駅のすぐ脇にあり、本来なら駅から数分で着くのですが、ななななんと!!!この日は電車が全面ストップしており、中野駅に行く足が無かったのです。これは歴史的にも有名な『スト権スト』ってやつでした。

 これは昭和50年暮に公務員のスト権全面付与を要求して公労協など三公社五現業労働団体が繰り広げた空前のストライキのことであり、11月26日から8日間にわたって国鉄は新幹線・在来線ともに全面ストップとなり、のべ1億5090万人の足が奪われたとの記録が残っています。

 ということはPFM達も25日大阪公演後の26日の名古屋移動、オフの京都見学、名古屋から東京への移動は新幹線でなく車だったことになります。(でも大阪→名古屋→京都は私鉄だけでも行けないことはないのかな?)主催者側もかなり大変だったと思いますがなんとか穴を空けずに全公演終えてほっとしたことだろうと思います。

  さて僕はとりあえず私鉄で新宿まで行き、新宿から地下鉄丸の内線で新中野駅で下車、後はひたすら歩いてホールへ向かいました。30分ぐらいかかったでしょうか、時間的に開演には間に合わないかとも思いましたが、なんとかぎりぎり間に合いました。でもやっと着いた時にはもうツアーパンフが完売していてがっかりでした。また、確か満員御礼の張り紙がホール入口に貼ってありとても印象的でした。皆一生懸命ホールに向かったのですね。苦労してホールまで行ったというだけでも一生の想い出だったのですが、この後の彼らの演奏でその想いはさらに深まりました。

 さて、この時の僕の座席は1階13列27番で、前から13番目、横50席のほぼ中央です。しかも僕の前はホール脇のドアとドアを結ぶ通路でしたから、前の人の頭もじゃまにならないのでとてもラッキーでした。
ちなみに中野サンプラザホールの収容人数は1階2階合わせて2222席(ホール中央に仮設のPA卓があったので実際には若干マイナス)です。ツアー規模の把握のために各ホールの収容人数を記載しておきますね。

 11月23日(日)東京=渋谷公会堂        2318席
    25日(火)大阪=厚生年金         2400席
    28日(金)名古屋=市公会堂        1994席
    29日(土)東京=中野サンプラザ・ホール  2222席

合計で8934席、少なくとも延べ8000人の観客が彼らを観たってことですね。

一方先日の2002年のツアーは

  大阪ブルーノート(252席+立見)x4回
  川崎クラブチッタ(601席+立見)x3回

ですから規模がかなり違います。

 今回のレポートではCTLさんのP.F.M.(Premiata Forneria Marconi) 年代別音源レビュー2.P.F.M. その(5)(http://www2u.biglobe.ne.jp/~CTL/HPdata/music/italy/italy42.html)でも紹介されているBoot音源を参考に思い出していくことにします。

 ちなみにBoot音源
 『Anytime, Anywhere』(Osaka, Japan/November 25, 1975)
 『Celebration』(Tokyo,Japan/November 29, 1975)
ですが、実際聴いてみるとCDに記載されている録音日がこの2枚で逆転しているように思えます。(Anytime, AnywhereでのMCで、今日は日本でのラストコンサートとしゃべっているのがその理由です。)また、ここで紹介されている以外に今年出た音源で、
 『PREMIATA FORNERIA MARCONI Tokyo 1975 Final』(Ayanami-122)
というCDがあります。これは今まで出た2枚の11月29日のCDとはソースが異なり、オープニングの日本語MCも入ったコンサート丸ごと収録の完全盤、ボーナストラックとして来日時に出演したTV番組でのインタビューまで入っているすぐれものです。音質も当時のオーディエンス録音にしてはまあまあです。

 それにしても90年代に入ってから、闇マーケットとはいえ彼らのライブ音源がこんなに沢山出てくるなんて...そしてまさかあの11月29日の音がもう一度聴けるとは夢にも思いませんでした。当時はPFMに関してはBootLPは1枚も存在しなかったし、他のアーティストでも日本公演物が出回るのは極めて稀でした。マニア間におけるカセットテープのトレードぐらいだったはずです。昨今のブート物は、やはりCDという媒体、パソコン、CDRの普及と関連しているのでしょう。

 また、彼らのオフィシャルホームページのディスコグラフィーにこれらのBootCDの存在まで掲載しているのは個人的な意見ですが、彼らが真のアーティストであり、版権等お金への執着が無く、毎回のライブ演奏を本当に誇りに思っているのだという気がしてなりません。一般的には多くの演奏家は各ライブでの出来/不出来が公になることや版権の問題で頭をかかえているのが現状だと思います。

 さて、この音源が出回る迄の20年間、このコンサートをどのように記憶していたのかを先に書いておくのがフェアだと思います。まず、コンサートでの演奏曲目はどうしてもうろ覚えで特に新曲を何曲やったかが不確かでした。およそ半年後に発売された『チョコレート・キングス』を初めて聴いたときには全曲演奏したものと錯覚していました。あと『PFM Live,Cook!』の再現に留まらず、それを上回る演奏のスピード、パワフルさ、そのテクニック、特に各曲で延々と繰り広げられるインプロヴィゼーションには本当に圧倒されましたし、ラストのアンコールでのジヴァスやフランコのソロや客席との一体感といった感動がずっと印象に残っており、何年経ってもこの時以上のコンサートには出会えないまま現在に至っています。この気持ち先日のコンサートに行ったかたならきっと共有できると信じています。

それでは、コンサートのレビューです。

第1部
演奏バンド:クロニクル

 日本のプログレバンド、そもそもこのバンドが前座ということを僕は全く知らなかったし、グループの名前だけは知っているものの、初めて聴く音でした。彼らの経歴を調べてみると74年11月にロサンゼルスのライブハウス『ウィスキー・ア・ゴーゴー』でデビューを飾っており、ギタリスト発地信男を中心に元ファーラウトの石川恵樹、竹田治、及び巳城研二の4人が結成したプログレバンドとの事。75年4月20日に東芝EMIエキスプレスレーベルから1stアルバム『ライブ・アット・ウィスキー・ア・ゴーゴー』を発表、同年9月5日には2ndアルバム『今は時のすべて』を発表しています。2ndアルバムからの『確かめたい』等(確実に記憶にあるのはこの曲とさびの部分が印象的なタイトル不明のもう1曲のみ)数曲を演奏しました。曲の雰囲気は、しいて言うならばフロイドに和製フォークをブレンドした感じ。個人的にはメロディーに日本語歌詞が合ってないちょっとした不快感も感じました。皆白っぽいだぼだぼな衣裳(こんな格好が当時の特にプログレミュージシャンにははやってたみたい)を着ていた気がします。ステージは
PAの音がやたらでかくシンセの高音で耳がおかしくなったのを憶えています。たぶん20分〜30分程度の演奏だったかと思いますが、特に盛り上がりもせず終了しました。

 当時の海外アーティストのコンサートにはアメリカと同じで大抵の場合前座のバンド演奏があり、2部構成となっていました。前座バンドの演奏が結構良かったりすると得した気分になれたものですが、今はこんな構成のライブは無くなってしまいましたね。ちょっと寂しい気もします。

 しばらく休憩をはさんで、日本語のMC『皆様お待たせしました。イタリアからのお客様をご紹介致します。拍手で迎えて下さい。PFMです。』この声で第2部が始まります。

拍手と歓声の中メンバーがそれぞれの立ち位置につきます。ステージ向かって左からマウロ・パガーニ、パトリック・ジヴァス、新加入のベルナルド・ランゼッティ、フランコ・ムッシーダ、フラビオ・プレモーリの順、そしてフランツ・ディ・チョッチョは一歩下がったステージ中央後方、一段高くなったドラムセットに陣取りました。さあ、一曲目は何を演奏するのだろう? 期待が一気に膨らみます。

(次回 PFM’75 その(4)に続く)


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