頼朝の異母兄弟 阿野全成の嫡男の最後が今、暴かれた
 NHK大河ドラマ放映を機に、沼津市井出の大泉寺と愛鷹山の最大の謎 山居院遺跡と長泉町五輪塔が今つながる
 
〜別の角度から調査されてきた山居院遺跡〜

山居院については別ページ特集【愛鷹山山中の謎の遺跡 山居院】にて詳しく調べてきました。明治史料館発行の「山居院」では結論として江戸時代の日蓮宗の分派、三鳥派の弾圧事件が江戸幕府公式記録にて暴かれました。また、明治期の愛鷹牧畜会社の利用もほぼ証明されています。しかし、大正時代に編纂された鷹根村史に残る 昔、大寺院の跡あり という言葉は、もっと遠い昔にこの地で陰湿で隠さなければならない事件があったことを暗示しているようでなりません。江戸期にあった三鳥派捕縛事件、明治にあった愛鷹牧畜会社が大正期にまったく語られていないとはどういうことなのでしょう。

大泉寺から東、柳沢から愛鷹山に登っていくと江戸幕府が設営していた愛鷹牧の一つである元野牧があります。その上方に登ると国指定史跡休場遺跡が存在します。さらにそこから約1キロ、愛鷹山に足を向けると山居平という平坦な場所が現れます。
この場所は湧水からくる湿地帯があり、大正時代には金岡奨学会による学林、根わさび畑、昭和ではクレソン畑やハイキングコースなどがありました。
注目する点は、この場所が(山居)と呼ばれていることです。山居は山麓に庵などを建て人が居住していたところからつく地名です。この山居という地名は方言(地元の農民などが呼んでいた地名)で、現在の地図には載っていません。
同じく、阿野全成(あののぜんじょう)の阿野荘の地名も現在地図には残っていません。なにか関係性があるのでしょうか?

高橋川に沿って進んでいくと山居遺跡に到着します。山奥に突如として現れる情景に驚かされます。


山居遺跡右翼方向

山居遺跡方面は現在植林の伐採作業のため大型の出入りがあります。場合によっては通行止めになっている可能性もありますので注意が必要です。

〜山居院遺構が時元が構築した城郭である根拠〜
山居院遺跡は多段の石積み、参道、鐘撞堂基台と見える3段目の円形の石積み。
参道両端にある池の跡だったと思われる植生群、付近はヒノキの植林帯なのにこの場所だけ孟宗竹が乱立している点。また、本堂付近には直径2mの井戸の跡が見られる点。などから寺院であった可能性は高いと思われる。
しかし、いくら山寺であるとはいえ根方街道から4キロ以上の登攀が必要である山中にこの規模の寺院を建てて信者は集まるのだろうか?それとも修業の場としてあったのだろうか?
さらに不可解な点、東側の沼津ゴルフ場の端に高山という場所があり、ここに鐘撞堂の痕跡がある、また柳沢方面の高台にもやぐら跡があり、これは先に説明した明治史料館発行の「山居院」では、三鳥派が日蓮宗信徒や幕府の弾圧をうけ山居院の見張り台としていたとされているが、時元らが山居砦の監視のために設けたのではないか?
もう一つ付け加えると、山居寺院の背後は絶壁であり、展望やぐらのようにみえ、安易に敵兵に囲まれないような立地とみられる。

山林内にこれだけの基礎の上に大規模な寺院の建設は相当の建築力がいり、まさか京都宇治の平等院のようなものがあったとは到底思えない。
とすると、この寺院は寺院に似せた建物であったのではないか?


阿野全成は子だくさんで頼保・頼高・頼全・時元…で時元は4男となりますが、時元の時は北条時政からもらった名で、母は時政の娘の阿波局と正室なので嫡男となっているようです。
吾妻鏡には北条義時の命で金窪行親らが阿野郡の館に攻め入った時には次郎、三郎入道ら兄弟一族が防戦したとのことが書いてあるが、時元の自決は数日後のことなので、大泉寺館付近には時元とその手勢はいなかったことになります。
館をくまなく探しても見つからないので、山奥の砦に進みますが事前に攻められることを予想して柳沢の道にはいくつもの罠をしかけていたのかも知れません。

なぜ、時元が一族ともども滅亡しなかったのか?時元が後鳥羽上皇からの宣旨を受けていたからではないかと考えます。

朝廷軍が時元を将軍にたて鎌倉入りを果たしてくれるというわずかな希望をもっていたのかも知れません。

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