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(時元の最後はドラマ風に表現しています)
根方の阿野の館はいずれ来る北条執権の攻撃に備え、山門正面には大松とイチョウの木を交互に交差し、直線で攻められないよう防御していた。南側根方街道には高い石積みをほどこし、さらに館内にも石積みで補強し丈夫な城郭としていた。金窪らの手勢は苦労して攻め込んだが、寺に集まった雑兵達は根方街道を埋め尽くす大群を見て驚き、裏手から退散するものが多かった。義兄弟次郎、三郎らと全成の恩をもつ家来たちはよく戦ったが多勢に押され、一族は逃がした女衆を除いて討ち死にした。しかし、時元らは山奥の山居に砦を築いて館にはいなかった。生け捕りにされた家来らはこのことについて口を割るものはいなかった。
(大泉寺の山門前で降伏を叫ぶ金窪行親の軍勢)
追手らは付近の村民を縛り上げ、柳沢の上、山居に時元らが籠城していることをついにつきとめた。翌日には一派は寺院に模した山居砦に迫っていた。父全成の仇ともされる北条に攻められ、降伏のない戦は終焉に近づいていた。
時元は「これまでよ」と言い 家来十数名を従え、砦裏から高橋川の沢筋に登り水神堂の滝で喉を潤し、繊細な姿を見せるつるべ落としの滝口から沢を外れ、急斜面の西尾根に登った。この道ではさすがに地理に乏しい金窪らには追いつかれまい、しかし山を登り切って須山村までたどり着いても北条の一派は待ち受けているのだろう。
時元は滝の音が消えた平坦な場所で腰をおろすと家来たちに伝えた。「いままで仕えてくれたこと、まことまことに感謝する。頼朝公に使えた偉大なる父全成は天に風を吹かせ北条を朝敵としてくれると信じていた。が、今はその時ではなかった。余はこの場所にて身を風にまかせることにする。皆の衆はそれぞれ山を下り、己の道を全うするがよい、達者で暮らせ…」
ともすれば第4代目の鎌倉殿となる夢もむなしく、家来らは時元が自刃する準備を怠ることなく後ろに引いた。時元は自刃し、その首はその上の尾根深く埋められた。
家来集は連座するものもいたが山を下りたものもいた。しかし、麓では山狩りをおこなっており全員が捕縛され、その後斬首されたという。ここに源氏頼朝の周辺の血筋はついに絶えたのだった。
この地は、現在の長泉町ハイキングコース 五輪塔付近と予想されます
標高千メートルの涼しげな山奥にある五輪塔 どことなく幼げで女性的でもある。時元は享年おおよそ三十歳、兄や弟達に励まされ鎌倉将軍への夢を持っていたが、ここで最後を遂げた。
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