◆教育観 『仏教とキリスト教』によると、 子どもの教育についての考え方に、キリスト教と仏教の違いはありますか。 例えば、キリスト教系と仏教系の幼稚園の教育ではどんな差がありますか。 子どもの教育については、キリスト教では基本的に子どもは未完成なものとして、 これを完成させるのにしっかりとした教育の重要性を力説しています。 子どもは、そのままではいわば動物の段階にあるのです。 したがって、これを人間にまで高めねばなりません。それが教育の役割です。 そこで、キリスト教における教育では、懲戒ということが重要になります。 「神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。 いったい、父に訓練されない子があるだろうか。 だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、 あなたがたは私生子(しせいし)であって、ほんとうの子ではない」 (「ヘブル人への手紙」第一二章) ここで「訓練」と訳されている語は、「懲らしめ」といった意味を含んでいるといいます。 懲らしめを与えられない者は私生児だ、と言っているのです。 また、『旧約聖書』の「箴言(しんげん)」第一三章には、 「むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる」 とあります。こうした『聖書』のことばによっても、 キリスト教が子どもの教育を、動物的段階から人間的段階に高めることだと考えているのがわかります。 一方、仏教では、すべての人間 − 大人も子どもも含めて − をほとけの子と見ています。 一切衆生(すべての生きもの)にほとけの可能性が宿っていると考えるのです。 そこで、子どものうちにあるほとけの可能性を高め、育てるのが、仏教で考える教育です。 この点では、仏教の教育観とキリスト教のそれとは、まるで違っています。 『キリスト教とイスラム教』によると、 両宗教は、子どもについてはどう考えていますか。その典型的な教育法は、どんなものですか。 キリスト教では子どもを、弱くて不完全な存在と見ています。 じつはそれ故にこそ、子どもは神から特別な寵愛をうけているのです。 『新約聖書』の「マルコによる福音書」(10)は、 次のようなイエス・キリストのエピソードを伝えています。 「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。 弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。 『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。 神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。 子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない』。 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」 しかしながら、子どもはこのようにキリストによって祝福された存在ですが、 いつまでも子どもの状態にとどまっていてはいけないのです。 なぜなら、子どもは未完成な存在だからです。 この未完成な子どもを完成させるために、「教育」があります。 では、キリスト教における「教育」は、どのようなものでしょうか……? キリスト教では、究極の教育者は神と考えています。 神がすぐれた教育者として、人間に教えをたれ、ときには試煉をあたえて、導きます。 この試煉については、『新約聖書』の「ヘブライ人への手紙」(12)に、左のようなことばがあります。 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。 主から懲らしめられても、 力を落としてはいけない。 なぜなら、主は愛する者を鍛え、 子として受け入れる者を皆、 鞭打たれるからである」 キリスト教の教育では、懲戒ということが重要視されているようです。 子どもは未完成であるということは、いわば動物的段階にあるのであって、 これを人間にするためには、調教師が動物を調教するように、鞭が必要だというわけです。 やはりキリスト教は、牧畜民族の宗教なんですね。 マホメットは、(第T部にも述べましたが、)彼が生まれた時にはすでに父が死亡していました。 母も、彼が六歳のときに亡くなっています。彼は孤児として幼少年時代をおくったのです。 そのような生い立ちですから、イスラム教の『コーラン』は当然、 子どもたちに対して深い愛情を示しています。 とくに孤児に対しては、愛情とともに、彼らが立派に成人できるようにと深い配慮を示しています。 たとえば、『コーラン』が四人の妻をもってよろしいとしたのも、 孤児を救うためであったとされています。 アラビア語には孤児″という語に二種あって、 両親を失った孤児もいれば、父親だけを失った孤児もいます。 父親だけがいない孤児を救うために、子どもをかかえた未亡人との結婚がすすめられたと言われます。 イスラム教では子どもに対して大きな慈愛をそそぐ一方、 子どもが早く一人前になることを期待してもいます。 これもたぶん、マホメットの幼時体験によるものかもしれません。 孤児であった彼は、できるだけ早く大人になりたかったのでしょう。 イスラム社会では、子どもはかなり早くから厳しくしつけられます。 そのしつけは、イスラム教徒としての規律を教えることであり、 そのために子どもは四歳になれば『コーラン』を暗誦させられ、礼拝や断食の修行をさせられます。 また、家事労働はもちろん、父親の仕事の手伝いを早くからやらされます。 経済観念も教え込まれ、十四、五歳で父親の経営する店で、 いっぱしの商人として振る舞う子どもも珍しくありません。 『コーラン』には明確な規定はないのですが、イスラム法によると満十五歳で成人に達したとされます。 イスラム諸国の子どもたちは、わりと早熟です。独立心をもっているからでしょう。 日本のモラトリアム (知的・肉体的には大人でも,社会人としての義務と責任の遂行を猶予されている期間)若者と、 まるで違っています。 神道では、時処位の一員として、天壌無窮な理想郷づくりのための教育を指向することとなろう。 〔教育・存在感の項参照〕 〔恭倹とは ・教育勅語に示された倫理の項参照〕 |
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