19 教育勅語に示された倫理
 
 中世の封建体制から脱却して、わが国が世界の注目を集める形で、政治・文化の近代化
を成し遂げたのは、明治の時代であった。
 しかしその改革は、国の独立を守り、幕末に武力を背景として締結せしめられた不平
等条約を改正するためにも、勢い西洋近代国家の体制を模倣するものにならざるを得な
かった。それは近代化と云うよりも、むしろ西洋化であったと評価されるのである。
 
 このような状況下において、英邁な聖帝であられた明治天皇が、最もその御心を痛め
られたのは、フランス法を模範とする民法の制定によって、わが国の秩序と文化とがよ
って立つ「家」の制度が崩壊し、敬神崇祖の美風が失われる危険があったと拝察される。
 しかし倫理は、権利及び義務に関する規定を中心とする法令には、本来馴染み難いも
のである。
 
 そうした事情から、国民に対して賜ったのが、「教育に関する勅語」であった。国際
社会を念頭に置いての国民道徳、神道の倫理は、従ってこの勅語に尽くされているので
ある。
「教育に関する勅語」
 
 国民、或いは人倫としての道徳が「孝」に発することは、儒教が説くところである。
わが国に受け入れられた儒教では、「忠」と「孝」が逆転している。即ち「孝」が「忠
」に優先すると、中国の如く革命を是認することになるからである。
 
 「忠」の第一義は、真心である。第二義としては、君主に対する忠義である。共同体
としての国家の君主に忠義を尽くすと云うことは、己の真心(存在)を成就させること
である。しかし絶対専制君主に忠義を働くことは、その君主には都合はよいが、それを
以て己の真心が成就されることはない。何故ならその君主は、自己のためにのみ存在し
ているからである。
 
 「孝」とは孝行のことで、これも人倫の根本として、人類普遍の事実である。
 キリスト教に関わるモーセの十誡とか、イエスの言葉には、孝行についての教えがあ
る。しかし成立宗教としてのキリスト教においては、超越的絶対神による救いを強調し
たことなどから、孝行の教えがすっかり姿を潜めてしまったとされる。
「モーセの十誡」
 
 「公」と「私」についてである。
 私心は歴史を通じて、わが国民が最も戒めてきた心の在りようである。
 「公」に奉ずることは、決して「私」を犠牲にすることではない。むしろそれは、私
存在の意味を成就する営みに外ならない。生命は、広く喜びをもたらしてこそ、生命そ
れ自体の価値を実現するものであろう。
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