20 倫理としての勤労
 
 労働することについては、旧約創世記に拠ると、即ちこの現実世界での人間の生の始
まりを、堕罪として捉え、生きるための労働を苦とし、罪の贖いと神による復活への赦
しを約束する労役であると、位置づけている。
 
 資本主義社会を崩壊させない限り、労働階級の解放は有り得ないと主張した共産主義
者達は、その第一目標として、キリスト教の廃絶を考えた。つまりプロテスタントの唱
導する「世俗内禁欲の倫理」、即ち労働はただ神の栄光を讃美するためにのみ捧げられ、
ひたすらな労働から得られた余剰価値は、人間の享楽的目的のために浪費されることな
く、更なる贖い、救いへの約束のために、資本として蓄積されなければならない……。
 共産主義者達は、階級社会を生み出す資本主義思想を批判し、キリスト教を攻撃した。
労働観と人生の目的については、遂に同じ発想原理、つまり「神の国=ユートピア思想
」を捨て切れずに、つまり労働を苦役と見、働かなくてもよい世界の到来を夢見ていた
のではないだろうか。
 
 神道においては、この世界は、神の子として生まれ、同じく神の子である国民が、皇
孫命の治らしのまにまに、生成の営みに勤しむ限り、天地と共に無窮の弥栄を寿がれて
ある国土なのである。
 労働は苦というよりも、喜びの源泉であり、働くことは自身が生きることであり、生
の目的であると云うことができる。
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