恭倹について想う

恭倹とは H15.03.31

「或る人問う」
 恭倹とは何か。
 
「我は想う」
 平成13年のある日、自分はある神職研修のとき、「今日の教育(問題)を考える − 教育勅語の精神を啓蒙する」と題する講録の作成提出と、それを講話として受講生数十 人の前で発表する、と云う機会を得た。
 講師からは、いろいろ鄭重で厳しい評価を頂戴し、大変勉強になりました。
 以下、拙文(原文のまま)を掲載して、読者の批評を乞いたい。

 教育とは、人を「教え育てること」です。つまり、私共人類が未来永久に、天壌無窮 の如く子孫を繁栄させ、永続して行く「方策」「方法」「術」を、親として、また大人 として、子弟に対して教え育てることであると思います。
 先輩、即ち私共が学び、歩んできた人生、自分の体験してきた生きざま、それらに裏 打ちされた人生観を、後輩たる子弟に引き継いでもらうのが、教育の基本であると思い ます。
 
 さて、「教育勅語」には、私共のなすべきこととして、次のように述べられておりま す。
 縦の繋がりとして「父母ニ孝ニ」、横の繋がりとして「兄弟ニ友ニ」、「夫婦相和シ 」、「朋友相信ジ」とあります。私友はまず以て、このことを実践しなければならない ことは勿論であります。そして、私共はそのためには、私は、次のことが最も重要であ り、常に心に想っております。
 
 それは「恭敬己レヲ持シ」であります。
 「恭倹」とは辞書に拠りますと、
一、「恭」とは慎み、「倹」とは懐かしみ。
一、つつしみて、物事につづまやかになる(つつしみぶかいさま。誇張しないさま。お ごりをしないさま。)こと。
一、人に対してうやうやしく、自分の行いは慎み深いこと。
とあります。つまり自らが謙虚になるの意味であると思います。
 
 古くからの教訓として、「子は親の背中を見て育つ」と言われてきました。先輩の言 動はその背中に表れるのです。言葉の綺麗ごとよりも、実践や実績、そして努力の様が 何よりも効果のある教育であると思います。
 
 第二次世界大戦ににおいて活躍されたわが国の高名な軍人の言葉として、次のような 歌があると伺っております。
 
 やって見て
 言って聞かせて
 させて見て
 誉めてやらねば
 人は動かじ
 
 この意味するところは、自らが率先して事に当たり、その実践の成り行きを、相手に とくと言い聞かせる、即ち薫陶することにあります。この教訓には恭倹の思想が裏打ち されており、年齢差や性別、貧富の差を超越し、普遍的に適用されるべき教育上の典型 的な規範であると思います。
 
 次に現在のわが国の教育の現状に関して、想っていることを述べます。
 それは教育について、それを受けるのは、国民の義務であると云う考えに疑問を持っ ていることです。
 前述のように、教育の必要性は、人類の永続のために、先輩が後輩にその人生観を引 き継ぐことです。
 
 ところが、いわゆる世界宗教においては、「この教えを信じなければ、あなたは救わ れない」と云うようなことが、よく言われます。と云うことは、その世界宗教において 構築された「理論」「経典」「聖典」など「その教え」に対して、絶対的に従わなけれ ばならない必要性があるからです。つまり「その教え」を遵守しなげばならない義務を 負っている、と云うことにほかなりません。その教えを人々に理解させ、納得させ、そ の宗教に改宗させるためには、教育は欠かせない重要な手段であったのです。従って、 教育を受けることは義務である、と考えられてきたものと思います。
 
 私が想うには、教育は人間の持って生まれた特権であると想います。教育とは、他の 動物にはない、人類固有の貴重な宝物であると想います。このように考えますと、言い 換えれば、大人は子供を教育する義務を負い、逆に子供たちは教育を受ける権利がある のです。
 そのためには私は、私共大人がもっともっと「恭倹」になって事に当たる必要がある と思います。(以上)
参照 「教育勅語」

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