12 神道の歴史観
 
 人間は、自己を含む存在世界の本質を問う営みを通じて「神」との出合いを持つ。神
は存在を意味づける価値の当体である故に、神を見出した人間は、その神との関係にお
いて、存在世界の命運を知り、自己の人生観を定めるに至る。従って歴史観と云うのは、
信仰的生の在りようを決定する根本要因の一つなのである。歴史観を明らかにすること
は、神学の課題である。
 
 神道神学史上、この課題を本格的に問うた最初の人は本居宣長であろう。しかし、彼
の著書『古事記伝』と『直毘霊』との間に理解しがたい部分(整合性の疑問)があるの
で、本節では採り上げないこととする。
 
 さて古典神話が、所与の存在から存在世界を発想していることは既述した。そしてこ
のように既存の存在から神々が顕現され、造化三神・別天神五柱・神代七代と云う生成の
過程を経て、その最後に成りました伊邪那岐・伊邪那美二柱の神が、天つ神諸々の命ミコト
を受け、まだ混沌とした状態に留まっていた地に、国生みを始められる。これが『古事
記』の伝承である。それは、所与の存在に生命力(生成力)の内在を認め、それが存在
意志の形で自立的に自己形成を計る営みを開始した、と云う存在世界の理解を、信仰と
して表明した神話だと理解することが可能であろう。
 
 勿論存在世界の力である神々は、常に人間にとって正(有益)の方向にもの働くとは
限らない。既述の通り、神の荒御魂はときに破壊的な威力を人間の上に及ぼし、また禍
津日神は、何時人間の上に災厄をもたらし、人間自身をも悪に誘い込まれるかも計り難
い。
 天孫降臨に先立って、中津国はなお、蛍火輝く神・さばえなす邪神アシキカミに満ちていた
のである。悪神の坐す限り、この世界に絶対的な平和と完全な幸福とが達成されること
は有り得ないであろう。
 
 しかし『日本書紀』は、天孫降臨に際して、天照大御神が三種の神器と共に、
「天壌無窮の神勅」
を下されたと云う信仰を伝えている。それは、高天原タカマノハラにおいて天照大御神が中心
神格であられるように、中津国において皇孫スメミマが、治らしの御業ミワザと祭りの営みと
を司られる限り、人間の生もまた、天地の続く限り弥栄であることを信仰的に表明して
いる。神道は、存在世界の本質を、その在りようの中に観、それを肯定するだけでなく、
その本質を生成の力と理解して、その働きたる存在意志に、存在世界を祝福する心を読
み取っているのである。
 
 存在世界の時間的変化は、その故に、基本的には上昇史観だと理解することが出来よ
う。
 しかしこれには勿論、神の子としての人間による参与がなければならない。神話では
中津国に降られた須左之男命による国鎮め、その御業を継承された大国主神による国作
りと国譲りの信仰とが、これを物語っている。歴史は神の御力によって、絶対的にその
在りようを定められてあるのではない。人間が関わるからこそ、時間は意味を持ち、人
間にとって「歴史」となるのである。「敬神生活の綱領」に言う「命ミコト持ち」の使命
は、極めて重いのである。
「敬神生活の綱領」
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