12a 神道の歴史観(続き)
 
 この課題理解を深めるために、ここでは、比較神学の立場から、キリスト教・仏教にお
ける時間論、或いは歴史観について触れてみたい。
 
 キリスト教は、存在世界の一切が神によって造られたものだと観ている。従ってこの
世界には、終わりが予想されている。初めを持つ相対的存在世界の事であるから、当然
にその終わりを持つと考えられるからである。それがこの世の終わり、つまり「終末の
時」と呼ばれるが、人間は必ずしも、全てこの世の終わりと運命を共にするとは考えら
れていない。この世界を創造した神は、元々この世界の外、つまり神の国に坐すのであ
る。旧約創世記では、それがエデンの園として描き出されている。人間は原罪の故に、
この神の国から追放され、エデンの東、つまりこの現存在世界で、有限な生命を、罪の
贖いのために、苦しんで生きなければならなくなった。従って、創造主である神を受け
入れ、自己の罪を悔い改めて、啓示によって与えられた神の戒律を守って生きた者達は、
この世の終わりの時に、神によって天国、即ち神の国に復活を許される、と考える。そ
れがキリスト教の言う「救い」なのである。
 
 しかし人間は、本来原罪を負い、しかも行動を選択し得る自由を神から与えられてい
る存在であるから、自己完結的なものとして自己を認識する思い上がりの心を持ってい
る。当然、神に背き、己の知性を信頼して、自らの利欲にのみ生きる者を多く生み出す
可能性を持っている。従って、これらの者を裁くために、神はこの世の終わりの時に、
神の子メシヤを遣わして最後の審判をされる。神を信ぜず、おのがじし生きた者は、永
遠の地獄に落とされるのである。
 
 以上の素描でも明らかなように、キリスト教では、神を信じない者にとって、「時間
」は永遠の奈落、つまり地獄に向かって突っ走る下降歴史観の姿を採り、信仰者にとっ
ては、有限で相対的な現存在世界を離れて、永遠の幸せを与えられる「至福の時」に向
かっての歴史となる。
 しかし、現存在世界に視点を据えて言えば、それは滅びの時を待つと云う、本来、意
味の主体たり得ないところの無価値の世界なのである。しかもこの世の終わりは、創造
主である神によって一方的にもたらされる。今日キョウであるか、千年後であるかも人々は
知ることは出来ない。「時」は不安に満たされているのである。勿論新教徒プロテスタントの
中には、イエスの十字架上における苦しみの死を、神の子による贖罪と捉え、地上天国
の実現を信ずる者もあるが、正統派とは言い難い。
 
 「業ゴウ」と「輪廻リンネ」を存在世界の理法ダルマと採る仏教は、存在世界に始まりを発
想していない。一度び存在を認めれば、それは原因・結果の理法に従って、存在は永遠の
過去から永遠の未来に亘って在り続けることを、同時に認めることになるからである。
これは、キリスト教が神による存在世界の創造、つまりその始まりを説くことによって、
神道と異なる発想法を示しているのに対比すると、仏教がこの限りにおいて、神道と近
似の立場にあると云う印象を与えかねない。
 
 しかし、このような理解は間違っている。何故なら、神道古典は、確かに天地開闢を
説くな当たって存在世界の所与性を説いてはいるが、この神話は一旦神世七代で切れ、
それ以後は、大八洲国(日本)の国生み神話に接続され、そこでは明らかに初めが説か
れているからである。神道の歴史観は、天皇の治らしと祭りの営みを中心とする、民族
国家日本についてのものであることを忘れてはならない。存在世界一般を問うているキ
リスト教や仏教とは、根本的に異なった発想法をしているのである。
 
 さて、存在世界の始終を説かない仏教は、それが持つ時の変化にも「意味」や「価値
」を観ようとはしていない。むしろ仏教の視線は、常に自らの煩悩によって現存在世界
の変化に苦しむ人間の側に向けられている。存在世界の変化は「無常」であって留まる
ことを知らない。従って、これに心を留めること(執著)は、人間の心に「苦」をしか
もたらさないものとして位置づけられるのである。そうした世界からの解脱こそが「救
い」なのである。そこでは「時間」の意味が問われるよりも、むしろ時間の超越こそが
求められている。
 
 仏教には、積極的な意味での歴史観は無い、と言えるであろう。
 しかし、煩悩熾盛の凡夫を救うことに信仰の主眼を置く大乗仏教は、時間による存在
世界の変化に、正・像・末の区別を建てる教学を展開して来た。即ち、本来救われ難い存
在である人間の煩悩によって、仏陀ゴータマの説いた正法も、釈迦の没後五百年を経て
見失われ、やがて形骸として寺院や出家の生活が、見掛けの絢爛さを保つ像法の千年が
過ぎると、煩悩のみが支配する修羅末法の世が訪れる。しかし仏の慈悲は広大無辺であ
る故に、五十六億七千万年の後、弥勒下生によって、衆生(人々)は救済されると云う
のが、そうした教説の信仰内容である。これは確かに、根本、或いは原始仏教が説く無
常観とは異なって、現存在世界の変化に、下降史観とは言え、信仰的には積極的な意味
を見出している、と言えなくもない。
 
 しかし更に一歩を進めて考察すると、人々は恐らく、五十六億七千万年と云う時間が、
実際の時を意味しているのではないことに、直ちに気付かれるに違いない。それは、む
しろ永遠と云う時に等しい。即ち、煩悩熾盛の凡夫に、この世における救いなどありよ
うはないのである。
 大乗の教学は、この意味で、ただ「末法史観」をのみ残したと言えるであろう。仏教
は、キリスト教と共に、現存在世界の生に、意味や価値を認めているのではないことが
分かる。
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