13 他界観の問題
 
 一つの信仰が現存在世界をどのように理解しているのかを知るためには、前節で考察
した「存在世界」の命運と共に、その信仰が、果たして現存在世界以外に何等かの世界
(他界)を発想しているかどうか、そしてまた、それら他界が、若し信じられていると
すれば、現存在世界と、一体どのような関係において位置づけられているかを問わなけ
ればならない。
 しかしこの問題は前節の課題がそうであったように、他方、人間がこの人生を如何に
生きるかと云う問題とも、不可分に結び付いており、複雑でかつ重要な課題であると言
わなければならない。
 
 明治維新の思想運動に大きな影響を与えた幕末の国学者平田篤胤は、その著『霊能真
柱』でも採り上げているが、彼の来世に対する考えは、しかし正統な神道信仰とは言い
難いと考えられる。
 
 さて『古事記』に語られた他界には、その順序に従って列挙すると、高天原タカマノハラ、
黄泉ヨモツ国、妣ハハの国根之堅洲カタス国、常世トコヨの国、綿津見ワタツミの神之宮、の五種があ
る。
 『日本書紀』は、高天原、根国(底つ根之国)、黄泉国(泉国)、日之少ワカ宮、常世
郷クニ、海神ワタツミ之宮が挙げられる。
 これらを集約すると結局、高天原と黄泉と常世の三種と考えられる。
 
 ここで考察を一歩進めるために、キリスト教と仏教の他界観について、触れてみたい。
 
 キリスト教では、その終末で示されているように、現存在世界は何れ滅びの時を持つ
のであるから、それは本質的な価値とはなり得ず、神を信じない者は、たとえこの世に
百年の生命を保つことが出来たとしても、それは結局、意味的に「無」に帰すると考え
られている。
 永遠の生命(存在の意味の成就)は、神の国への復活によってのみ達成されるのであ
る。従って、第一義の世界は「神の国」であり、造物主としての神は、現存在世界を超
越しているから、この世界に対して、神の国は垂直的な上方に位置づけられる。それは
現存在世界とは、存在の次元を異にしている信仰を表している。無信者はメシヤによる
最後の審判を受け、地獄に落とされるが、そのうち罪の軽い者に限り、煉獄に留められ、
神の国への復活サルベーションの可能性はまだ残されている。
 なお近来は、地獄に落ちることはないとか、死後の問題に触れることを避ける傾向が
あるが、地獄が否定されたことにはならない。
 
 仏教についても、キリスト教における天国と地獄に相当する信仰の存在を否定するこ
とは出来ない。現世は生ある限り、煩悩流転の苦しみから完全に解放されることはあり
得ない。
 在家救済に主眼を置く大乗仏教になると、当然、生前の解脱ではなく、死後の安心・往
生を説くことになる。しかし、現実民間に生きている仏教信仰には、教学的にみて、多
くの誤りがあることは否定出来ない。
 
 例えば浄土教学によって広く信仰されるようになった極楽浄土は、西方十万億土の彼
方に位置していると言われるが、それは前節で示した五十六億七千万年と云う数字と同
じく、決して教学的な実距離を意味しているのではない。実は、無限に等しいと考えら
れ、「浄土は無い」と言うに等しいのである。第一に、死後にもまだ個性が残っている
のは、仏教的に、なお救われていないことを物語っているのである。
 
 追善供養は、この世に残した死者の怨念や執著を断つためにこそ行われる。この意味
で、日本人一般に行われている盆及び彼岸の祖霊(死者)供養は、矛盾している。
 そもそも供養は、三宝(仏・法僧・)にこそ捧げられるべきものである。中国で成立し
た偽経『盂蘭盆経』が、そのことを説いている。その功徳が廻向されて、苦界(地獄)
に落ちた死者霊は、成仏(存在の理法と一体化)することが出来るのである。
 
 しかし日本人は、個性が消滅した筈の四十九日以後にも、毎年祖霊を現世に呼び寄せ
て、供養を繰り返している。現世を苦界や穢土として厭離し、浄土に往生し得ている者
(これ自身、教学的には矛盾があるが)は、或いは子孫縁者のために、嫌々ながら一時
の来往を受け入れてくれるかも知れない。しかし、地獄へ堕ちた者はどうなのか。
 しかし日本人は、この死者霊を送り火をたいて送り返しているのである。
 なお浄土観の特色として、浄土は現存在世界と水平的な西方にあると位置付けられて
いることが、超越神の存在を否定していることになる。
 
 さてわれわれ日本人は、自分が死後何処へ行くかを確実に知る手だてはない、しかし
死者は、この世と完全に絶縁して、理想的な他界に行ってしまうのではなく、自分がこ
の世界で祭り招けば、何時でもその祭りを受け、自分と共に交わり、喜びと悲しみとを
共にしてくれる、いやそれが祖霊であれば、かえって身近に留まって、子孫の幸せを守
ってくれると云う信仰が、その底に隠されているいるからではないであろうか。神道に
とって、第一義の世界は、理想化された他界ではなく、むしろ、この有限で相対的では
あるが、生成の神々によって祝福され、我々の命ミコト持つ営みによって、不幸や災いはあ
りながらも、弥栄に成長を約束された「中津国」、つまりこの大八洲国に外ならないの
である。
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