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表紙 The cover of the book |
「選挙へ行っても、何も変わらない」という嘆きをよく聞く。なぜ、主権者である国民が選挙へ行っても、何も変わらないのだろうか。その原因は、何なのか。 政治も経済も混迷して出口が見えなくなっている現在、考え方の出発点をどこに求めたらよいのか。本書は、わが国の基本的なあり方の一つとして議論の対象となっている地方分権と予算と決算とを結び付けて、国民主権を実現する立場から取り上げたものである。 わが国では、先進諸国に例を見ない勢いで高齢化が進んでいる。それに少子化が加わり、当面は、この傾向を転換することは不可能である。この事態に対しては、もはや「おかみ」に「おまかせ」して凌ぐ方式では、対応しきれないことは明らかである。では、どうするか。国全体では、民主主義の原点に立って、福祉社会を国家目標とする政治体制を構築するにはどうするかを、地域住民の立場から広範囲の議論を展開することが必要である。地域社会では、自助努力を出発点として住民自治を徹底することである。 直接民主主義の経験を基盤としないわが国の代議制民主主義では、選挙公約は単なるスローガンに過ぎない。地方分権が国の政治日程にのぼっていても、受け手の市町村の動きは鈍い。地方議員は予算と決算によって首長以下の執行機関を統制することになっているのに、最近の市民オンブズマンによる食料費や交際費などの指摘に見られるように、地方議会による執行機関の統制が有効に機能しているとはいえない。 代議制民主主義では、選挙公約を媒体として地域社会のあり方が決定される。しかし、わが国の現実は、選挙民の意向を空中分解させて、「選挙へ行っても、何も変わらない」と嘆かせる要因が多すぎる。官僚組織や画一的な地方制度だけでなく、その制度を財政的に支えている財政制度もまた住民の住民による住民のための地方政治を展開させる障害となっている。 地域社会のあり方を財政的に決定することになる予算や決算となると、民主主義はもともと素人にもアクセスできる政治体制のはずであるが、国と地方の財政資金の移動の複雑さや財政に関する専門用語が地域住民の接近を阻んでいる。既に機能不全を起こしている戦中戦後を通じて構築された行財政制度を打破して、自助努力を出発点とする住民自治を徹底するのは容易ではないが、高齢化社会は到来を待ってくれない。 そこで、本書は、住民参加の地方政治を実現するために、地域住民が予算と決算を通じて地域社会のあり方に参画する方途を明らかにしようとしたものである。その所期の目的を達成できたかどうかは読者の判断に待つしかないが、地方分権から地方自治への議論に一石を投ずることができれば幸いである。 拙著『米国の地方財政』と『現代行政の新展開』以来、本書の出版に当たっても、専務の石橋雄二氏には一方ならぬお世話になった。心からお礼を申し上げたい。また、編集部の名節弘康氏にもお世話になった。厚くお礼申し上げる。 1996年9月 |
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目 次 |
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出版記念パーティの挨拶 |
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今晩は、お忙しいところを貴重な時間を割いて下さいまして、本当に有難うごぎいます。その昔、一緒に勉強したことがあるとはいいながら、このように大勢の方に出席していただいたことを診りとしております。 まず始めに、お時間をいただいて、どうしてこのようなパーティを開くことになったか、その経緯を述べさせていただきます。 ここにお集りの皆さんは、少数の例外はありますが、管理職試験の論文対策を一緒に勉強した方々であります。今から当時を思い返しますと、皆きんそれぞれに感慨深いものがあろうかと思いますが、今でも私には当時から気になっていることが二つごぎいます。その一つは、当時、教師あるいは先輩として皆さんに教えるのではなく、皆さんと対等の立場で議論をすることを心掛けていたつもりですが、殆どの皆さんは、私の言説に違和感を抱いたのではないかということです。皆さんは賢明ですから、私の言説に対する反発は棚上げにして、専ら合格する方に重点を置かれた方が多かったといってよいと思いますが、当時の私の言説は、大方の皆さんには、受け入れ難いものだったろうと考えておりました。そこで、問題なのは、それを自覚しながら、私が言説を改めようとしなかったのは何故なのかということになります。 この間いに対しては、一言で答えることはできませんし、それに御馳走も待っていることですから、簡単に申し上げますと、少しオーバーな表現になりますが、民主主義をわが国に定着させるために、私には何ができるかという課題を自分に課していたからであります。それでは、何故にそのような大それた課題を自分に諌していたのかと申しますと、その根底には、茨城県の片田舎で十歳のときに迎えた太平洋戦争の敗戦の前後の体験があるわけですが、直接には、二度も公費で米国へ勉強に行かせてもらう機会を持ったことなのです。 最初の機会は一九六九年から七〇年にかけてでごぎいまして、三十四歳から三十五歳にかけてでしたが、米国では五十州のうち四十数州をめぐり、貧乏旅行の利点を生かして、できるだけ多くの人と話をするようにしました。そこでわかったことは、米国人の目的意識の強さとキリスト教の影響力でした。西欧社会の根幹を構成しているのは、ギリシャ哲学とキリスト教だといわれていますが、目的意識の強さはギリシャ哲学に由来するものに思えましたし、ボランティア活動はキリスト教と不可分の関係にあることがわかりました。中学生のときに吉川英治の『三国志』を読んで中国古代史に興味を持ち、高校時代に新約聖書と旧約聖書のほかにヘルマン・ヘッセをかなり熱心に読み、大学生のときに司馬遷の『史記』とブルタークの『英雄伝』を読んでいましたから、東洋と西洋の相違については、ある程度の予備知識を持っていましたが、米国の旅行中に得た体験から、日本と米国の異質なところがそれなりにわかって来ました。そして、これからは、西洋中心ではなく、いろいろな文明が共存する時代が到来するであろうと予想しましたが、東西両文明が共存する中で、日本はどうすればよいのかと考えるようになりました。その日本の中で、東京都はどうすればよいのか。文明は興隆と衰退を避けられないとしても、都政人として、その前に一人の人間として、私は何をすればよいのか。課題はたくさんあることに気付くようになりました。 二度日の渡米は、一九七七年から七八年にかけてでごぎいまして、ニューヨーク市に滞在して、一九七五年に破産騒ぎを起したニューヨーク市の財政難の原因を追及しながら、海の向こうから日本を眺めて、帰国したら何をしようかと考えました。西洋にはノブレス・オブリージ(noblesse oblige)という考えがあり、私は高貴な身分の者でも人に壊れた才能の持ち主でもありませんが、何をすれば私は生きたことになるのか。私の人生を意味あらしめるためには、何をすべきなのか。そもそも私は何をするためにこの世に生を亨けたのか。 その頃、私は既に四十三歳になっていましたが、四十歳の不惑の歳に、私の発想の起点を、人間関係を上下の関係ではなく、同じ平面に置くことにしていました。その考えは、後に『史記点描』を書いたときに第十九話の「皮衣を三十年」に述べたつもりです。これは、中国の春秋時代の末期に生きた斉の晏嬰について書いたもので、晏嬰は一般に晏子と尊称されていますが、儒教の大成者として有名な孔子の父親の世代に属する人物です。 またもとに戻りまして、ニューヨークから帰国する前に、いろいろ考えた結果、先ほど述べましたように、民主主義をわが国に定着させるために、私にできることを実行しようと決心したわけです。 ところで、皆さんと最初につきあったのは、一九七三年で、福田さん達が最初であり、それから十三年間も皆さんと一緒に議論することを楽しませていただいたわけです。もっとも、私の楽しみは、帰途に皆さんの中のボランティアと飲むことの方に重点があったのではないかと主張される方がいるかも知れませんが、その頃、私が構想していたことはーー構想と呼べるほど大したものではありませんがーー、実現可能性という観点からは、空想に属していたと思います。しかし、一九九〇年代に入って、状況は変って来ました。その変化を私がどのように把握しているかは、『地方分権と予算・決算』を読んでいただきたいのですが、長いこと暖めてきた夢を語っても、変り者扱いされない状況にようやくなって来たと思います。この状況の変化については、機会があれば皆さんと大いに議論したいのですが、今晩は長くなりますので、省略させていただきます。 以上述べましたような次第で、今晩皆さんに集まっていただきましたのは、当時から心に懸かっていた皆さんの私の言説に対する疑念を晴らしていただきたかったからでありまして、更に本音を申し上げるならば、気心の知れた皆さんと心おきなく酒を飲む機会を得たかったからであります。 始めのところで気になっていることが二つあると申しましたが、その一つは『地方分権と予算・決算』で一応の決止看をつけたことにしていただきたいと思います。私としては、皆さんの中には、必ず私とは見解を異にする者がいるはずですから、皆さんと勉強していたときにも申し上げたはずですが、私の主張に同調する必要は少しもないのでありまして、私の主張をこえる本を執筆していただいて、大いに論争を展開したいものと願っております。その論争の中から、都政を担っている皆さんの活力が湧き出て来るものと信じております。 ところで、心に懸っている残りの一つは何かと申しますと、管理職試験に合格するのもよいし、合格しないのもよいといっていたことであります。この発言は、合格者と不合格者の両方から評判が悪かったようです。合格者には折角難関を突破したのに評価してもらえないという不満が残り、不合格者からはそういうことをいわれても慰めにならなかったからであろうと思います。この発言は、私が老荘の徒と自称していたことと閑係があるのですが、この点に閑しましては、私が七十歳をこえた頃、皆さんの中にも知命の年齢をこえる者が出てくるでしょうから、その頃にまた皆さんと議論できる機会が持てればよいと願っております。 なお、蛇足になりますが、天体観測所の方は、九月二十三日現在、土木と建築の作業はおおかた終わっておりますが、一〇月十五日から二か月の間、給水施設が停止します。この停止は、水源のダムの十年毎の定期点検によるものですが、天文に興味のある方にご披露したいと考えていましたのに、残念ながらそれが今年中は不可能となりました。四十三歳のときにレンズ磨きを始めてから十八年、現在の北茨城市に観測所の建設を始めてから二年九か月が過ぎようとしています。 目下、天体観測所の建設に到るまでの文字通り汗と涙の物語を書いておりまして、今年の暮れには脱稿する予定です。レンズ磨きから天文台の建設まで一貫して自力で達成した前例はわが国にはありませんので、書き残しておく意味があろうだろうと思うからであります。 その後は、今年の暮れに地方分権推進委員会から最終答申が出ましたら、それを読んだ上で、『日本の地方財政』の執筆に取りかかろうと考えています。この本の構想は、一九八九年に『米国の地方材政』を書いたときからのものであり、日本と米国の地方財政を対になるように書こうと考えていたものであります。完成するには二年ぐらいかかると予想していますが、未だ脱稿してもいないのに、本の名前まで上げましたのは、皆さんの前で取り上げて、引っ込みがつかないようにするためなのです。謙譲の美徳の余韻が残っているわが国では、大言壮語は慎むべきことなのですが、それを承知で敢えて公言したのは、執筆という経済的にも肉体的にも割の合わない苦労から逃れようとする弱い自分を袋小路に追い込んで、脱出できないようにしようというわけです。その意味で、皆さんには余計なことを申し上げたことをご容赦いただきたいと願っております。 ところで、皆さんの中には、以外な方が出席されているのに驚かれた方もいると思いますが、この機会に知り合いとなって、できれば職場の話題をこえた議論の花が咲くようにと願っております。このような機会は何度もないはずですから、東京の中の都政、日本の中の東京都、世界の中の日本という具合に問題意識を拡大していただきたいのであります。そして、以上のような平面ばかりでなく、歴史的な視点も導入して縦の線でも発言できるょうに、更に視野を拡げていただきたいのであります。そうした対話の中から二十一世紀への新しい展望が開けて来るものと信じております。 簡単に話をするといいながら、少し長くなりましたので、ここで中止することにいたします。今晩は、貴重な時間を割いて下さいまして、有難うごぎいます。改めてお礼を申し上げまして、挨拶といたします。 (一九九六,九,二七) |
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