結城七郎朝光(ゆうきしちろうともみつ) |
仁安2〜3年(1167〜68年)平安時代末期に小山氏の三男として生まれる 治承四年、数え歳14歳から逆算して、推定したと思われる 父は、下野国小山の豪族・「小山政光」(おやままさみつ) 「承平の乱」で、平将門を討った奥州藤原秀郷の末裔(まつえい) 母は、常陸の豪族八田宗綱(はったむねつな)の娘で、源頼朝(みなもとよりとも)の乳母(めのと)を務めたこともある、後に寒河の尼(さむかわのあま)と呼ばれた。 長男は小山四郎朝政(ともまさ)次男は小山五郎宗政(むねまさ)後に長沼五郎宗政として吾妻鏡に登場する。 生まれた時点では、幼名「一万丸」 通称「小山七郎」と呼ばれてた朝光が、治承4年10月2日、母の寒河尼に連れられ隅田の宿に参向し、頼朝に臣従、頼朝が烏帽子親となって元服し、「小山の七郎宗朝」となり、後に朝光に改名することが、下記の吾妻鏡に書かれています。 この時の年齢が、数え歳14歳、 満で12〜13歳といえば、今の中学生になった位の歳である。母に連れられて、ご対面というのも頷(うなず)けますよね。・・・ |
これが、[一鵬斎芳藤」(歌川芳藤)画、大判三枚続き]の 「治承四年 源頼朝 隅田川旗上着到勢揃之図」です。 結城朝光14歳の時、今から800年も前の平安時代末期の話ですが、描かれたのが、180年前の江戸時代後期で、600年も経ってから描かれたもので、歴史画等とは違い、色々な制約などがあったり、歌舞伎、種本、など後に作られた話や、噂(うわさ)話、などが盛り込まれた浮世絵の性質上そのまま解釈してしまうのは間違いの基となります。 絵師歌川芳藤(うたがわよしふじ)《文政11年(1828)〜明治20年(1887)》は歌川国芳の門人で、1849年頃より作画活動を始め、横浜絵、武者絵、などを描いたが、中でも、おもちゃ絵師として有名で、明治時代には、本名「西岡藤太郎」の名で版元として、多くの「おもちゃ絵」を出版している。 この絵の製作年は、名主印が二つ、村田、衣笠のようですので弘化4年(1847年)〜嘉永6年(1853年)頃と思われます。当時の武者絵の描き方の特徴として、派手な幟旗や馬印をなびかせたり、城は石垣に白壁といった、戦国時代以降の戦い方になっている。 また、この時の朝光の名前は、前記の通り「結城七郎」ではなく、「小山七郎宗朝」もしくは「朝光」であるのに、「結城七郎俊兼」?と描かれています。 この時代、「俊兼」の名の付く人物は、「藤原俊兼」・「源俊兼」などあり、後に服装が派手すぎるとして頼朝に袖を切られた「筑後権の守俊兼」(藤原俊兼)の記述が吾妻鏡にあります。 私の推測ですが、吾妻鏡の中の「後に朝光に改名」とあるのを知って、「宗朝」を「俊兼」としてしまったのかとも思います。なにせ、朝光はこの絵の中では、脇役の一人に過ぎない存在であったのは確かですので。・・・・・・・・・・・・ |
治承4年(1180)8月17日 頼朝は「以仁王の命旨」を受け、北条時政一族や、伊豆の豪族300騎を率いて挙兵するが、8月23日伊豆・相模の国境「石橋山」にて大庭影親・伊藤祐親らの平家軍3000騎に敗れ、箱根山中に逃れる。 ここで、平家軍の梶原景時・飯田家義ら(この後頼朝に臣従)に助けられ、同28日真鶴岬から相模灘へ出帆、暴風雨のため石橋山に間に合わなかった三浦氏と合流し、翌朝、安房国平北郡「猟島」(かりしま、今の千葉県鋸南町、竜島)に上陸。 安房州崎にて各武将に書簡を送り態勢を整えながら、9月13日上総に向かい北上する。同17日、下総国府に参着し、千葉介常胤一族300騎が出迎える。《上B図.1番千葉介常胤とある》 同19日、常胤の兵300騎を従え出発、隅田川の河原にて上総介広常の2万騎が合流。《上C図.2番上総介広常》 10月1日には、石橋山合戦で分散していた多くの武将が頼朝の鷺沼の宿舎で合流し、10月2日ついに3万騎の頼朝軍が大井・隅田の両川を渡り、武蔵国へと進軍、隅田宿でも多くの豪族の参陣があった。《上、芳藤画三枚続の図.「治承四年 源頼朝 隅田川旗上着到勢揃之図」とその下「吾妻鏡の一説」》 10月7日隅田宿から5日後頼朝軍は鎌倉に入る。途中畠山重忠・河越重頼・江戸重長が参陣する。10月21日 源義経300騎を連れ奥州より馳せ参じ頼朝と対面する。 同23日富士川の戦いに勝利し、同27日には佐竹氏討伐のため常陸国へむけて進軍、11月4日常陸国府に入り佐竹義正を誘殺、佐竹義季を味方に引き入れ金砂城を攻める。当主・佐竹秀義は、奥州平泉に落ち延びてゆく。11月17日頼朝軍は鎌倉に帰着する。 |
頼朝挙兵からの経路と経緯 |
小山朝光が、結城郡の地頭となり結城朝光に |
宗政(むねまさ)朝政(ともまさ)[朝政疵(きず)を被(こうむ)るに依って不参]の名代(みょうだい)として、一族及び今度合力の輩(やから)を相率い、鎌倉に参上す。武衛(ぶえい)御対面有り。勲功を感じ仰(おお)せらる。 宗政(むねとも)・行平(ゆきひら)以下の一族西方に列居す。知家(ともいえ)・重成(しげなり)以下また東方に列す。生捕(いけど)る所の義廣(よしひろ)従軍二十九人、或いは梟首(きょうしゅ)、或いは行平・有綱(ありつな)等に召し預けらると。 次いで常陸(ひたち)・下野(しもつけ)・上野(こうづけ)の間、三郎先生(志田義廣)に同意するの輩の所領等悉(ことごと)く以てこれを収公せらる。朝政(ともまさ)・朝光(ともみつ)等恩賞に預かると。 |
これは、2月23日の野木宮合戦の5日後に、小山宗政が朝政の名代として、一族の者や、共に戦った者達が、鎌倉に報告にきた。 頼朝は面会、生捕った者を裁定し、次いで、常陸、下野、上野にある志田義廣と加担した武将達の所領を召し上げられて、小山朝政・朝光達は恩賞をうけた。と書かれている。 或る文献によれば、この恩賞により下総結城郡を所領とし、この頃より結城七郎朝光と呼ばれるようになったとされています。後に地頭職に任命される。 (頼朝が追捕使・地頭補任権を獲得するのは文治元年(1185年)頃と言われる) |
資料として使わせて頂いたHP ウィキペディア(Wikipedia) 畠山重忠研究 「三浦三崎ひとめぐり」 鎌倉歴史散策加藤塾 義経デジタル文庫 KAMON WARLD 千葉一族、千葉介の歴代 書籍・辞書等 凡灼P掉可゙図説日本j 国芳の狂画 東京書籍 歌川国芳 新潮日本美術文庫 新村出偏 広ォ苑 岩波書店 明解 古語辞典 三省堂 |
閏2月27日 癸酉(みずのとり) 武衛(ぶえい)若宮(わかみや)に奉幣(ほうへい)し給う。(中略)而(しか)るに宝前(ほうぜん)に跪(ぬかづ)き、三郎先生(さぶろうせんじょう)の蜂起(ほうき)如何(いかん)の由(よし)、独り仰(おお)せ出(いだ)さる。 時に小山の七郎朝光御劔(みつるぎ)を持ち御供(おとも)に候(こう)す。この御旨(おんむね)を承(うえたまわ)りて云(いわ)く、先生(せんじょう)すでに朝政が為攻め落とされをはんぬと。 武衛面(つら)を顧(かえり)みて曰(いわ)く、小冠(こかん)の口状(こうじょう)は、偏(ひとえ)に心の発する所に非(あら)ざるなり。尤(もっと)も神託(しんたく)たるべし。もし思いの如く無為(むい)に属(そく)かしむに於(お)いては、優賞(ゆうしょう)に行わるべしてえり。朝光今年15歳なり。 御奉幣(ごほうへい)の事終わり、還向(かんこう)し給(たま)うの処(ところ)、行平・朝政が使い参着し、義廣逃亡するの由これを申す。以下省略 |
《頼朝は八幡宮に奉幣する。そして、「志田義廣の裏切りの蜂起はどうなったか」と独り言を云った時、小山の七郎朝光はこれを聞いて、「志田義廣はもうすでに小山四郎朝政に攻め滅ぼされた事でしょう。」と云った。 頼朝は振返って「若者が云っている事は心が思いついて云ったことではなくて、神様からのお告げに違いない。」「もしその通りになったなら、褒美(ほうび)をとらせなくてはなぁ」と云った。 そして、参拝が終わって戻ったところ、行平・朝政の使いが参着して、義廣逃亡したと知らせる。》といった内容のようだ。 志田義廣3万騎が攻めてくるのを知って、鎌倉にいた小山宗政、は野木宮に駆けつけるが、頼朝はまだ幼い朝光を若宮の奉幣に共をさせ返さなかったと思われる。 頼朝はかなりの激戦になると思ったのだろう。小山の当主政光の留守中に朝光だけは助けようと考えたように思います。(兄の朝政は負傷している。) ただ、「七郎朝光の郎党保志秦の三郎等攻戦す」と言う記述もあり、また頼朝の御供が最も重要な奉公でもあり、上記のこにような出来事もあって、朝光は特別に過分の恩賞を貰ったのではないかと推測されます。朝光が頼朝に大変可愛がられていた様子を覗うことができます。 朝光が頼朝の庶子(しょし)であると言う伝説もこのようなところからくるのかもしれない。 |
また、この野木宮合戦で、蒲冠者範頼(かまのかんじゃのりより)が吾妻鏡に初めて登場する。この時は、小山朝政の傘下で戦い、他の地方武者達と同じ扱いになっているが、この後木曽義仲討伐軍、平家追討軍の大手軍(本隊)の大将となる。 |
朝光は、野木宮の合戦では戦っていない! |