泥面子(どろメンコ)「町火消しよ組」と「大の字三つの紋」 お宝発見!06年6月増刊号第51巻

参考006

今回は泥メンコの追加です。「火消しの纏」と、大の字三つの紋」のついたのメンコの
絵柄とその時代の浮世絵の図についても少し紹介したいと思います。

江戸のメンコは人気のあった浮世絵の図柄から引用されたのでは・・・・。」
というのが私の考えです。

左 1番組よ組の泥メンコ 2個   右 浮世絵、よ組の纏(まとい)の図

面子(メンコ)のサイズ、左2.5cm 右2.2cm  (江戸時代後期〜明治頃?)

上の左のメンコには、「よ組の纏」の絵と「はしご」「よ」の字が描いてあります。
これは、
「1番組よ組」を表したメンコということがわかります。
右の物も「はしご」は無いが「纏」と「よ」の字を読み取る事ができる。

纏のメンコの中でも見かけるのは、この「よ組」のものがほとんどです。
江戸の子供達に凄い人気があったということが想像できます。

纏(まとい)のデザインは、神田の「田」の字からきているそうです。
1番組よ組は、町火消しの中でも最大の人足数を数え人気も高かったようです。

右の画像は江戸時代の歌川派浮世絵師、「豊原国周」(くにちか)画
『み立て いろはあわせ』の中の一部分「よ組の纏」の図です。

http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/nishikie_00_5.htm

1番組には「い組」、「は組」、「に組」、「よ組」、「万組」があり、
浅草橋、筋違橋川端より飯田町、小川町、神田権現をへて呉服橋までの堀端。
呉服橋一丁目、四日市、江戸橋より大川橋通り、両国川通りまで。を担当したようです。

「町火消し」とはいったいどんな組織だったのでしょうか・・・・?
江戸の「町火消し」や「纏」についてもっと詳しく知りたい人は、
http://homepage1.nifty.com/saga-t/index.html
河童淵のHP・お江戸の渡し「町火消しについて」をご覧下さい。


  左 梶原源太景季の馬印  中 下図、大庭影親の馬印   右 大の字三つの紋」の泥メンコ
面子(メンコ)のサイズ、1.6cm  (江戸時代後期〜明治頃?)


大の字三つの紋」の泥メンコ、何の紋かわからず数年たちました。
泥メンコの図柄の多くが「歌川派」の浮世絵に見られることがわかり、
特に、国芳のものに絞って探していたところ発見したものです。

最初、画像左の梶原源太景季のものを見つけましたが、「大」の文字が逆さです。
梶原源太は歌舞伎など役者絵にも多く描かれており、矢羽根の紋で表されています。

やっと画像中の石橋山の大庭影親の馬印を探し当てましたが、
しかし、この時代には平家方が赤旗、源氏方が白旗を掲げて識別した程度で
家紋をつけた旗印を使用するようになったのは鎌倉時代以降であるという。

とすれば、この時代に大庭影親が馬印を掲げているはずはないのですが、
おそらく当時としては、その後の戦い方が当たり前のように画く事が常識であったのでしょう。


06年7月27日追加)

先に紹介した、大庭氏の子孫と称する旗本家の紋を見つけましたが、
「三大文字」といい(大の字が三つピラミット型になっている物で、
「尻合せ」にはなっていませんでした。

梶原景季の梶原氏も大庭氏と同じ「鎌倉権五郎景正の流れをくむものなので、
歌川国芳梶原景季の馬印に使ったことも納得できます。

参考資料、KAMON World  http://harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/kamakura/html/kama02.html


《注、当時、江戸幕府の禁令により織田、豊臣以降の武将を描くことは禁じられていました。》

「豆州石橋山、鳶之崖ニ源頼朝主従七騎臥木之中ニ隠ル図」
歌川国芳 画   錦絵大版三枚続横絵の内右中の二枚
 文化12年〜天保13年(1815-42)


上の図は歌川国芳が「石橋山の合戦」の様子描いた、
「豆州石橋山、鳶之崖ニ源頼朝主従七騎臥木之中ニ隠ル図」です。
最近やっと見つけたものですが、残念ながら三枚揃の2枚しか入手できませんでした。

治承4年(1180)8月17日、伊豆で平氏打倒の旗を挙げた源頼朝は、
同月23日関東へ進出し、石橋山に陣を張った。
頼朝蜂起の報に接した
大庭景親は、武蔵・相模の平家方の武士に出陣を呼びかけ、
両軍は石橋山の谷を隔てて対陣した。平家方は三千余騎、頼朝方はわずか三百騎、
数の上でも圧倒的に勝る平家方に惨敗した頼朝は、郎党とともに土肥杉山の
伏木の大洞に身を潜めた。梶原景時の配慮により一命を得た頼朝は、
その後、真鶴岬より安房に脱出し、再び反平家の旗を挙げた。
《文引用・小田原市 岩崎宗純氏》

詳しく知りたい人は、合戦の場所となった小田原市のHP
●浮世絵で読む小田原の歴史 石橋山合戦を参照して下さい。

小田原市のHPに紹介されている「豆州石橋山、鳶之崖ニ源頼朝主従七騎臥木之中ニ隠ル図」は、
上の物と多少刷りが違うようで、大の字三つの紋」の墨摺りがぬけています。

上の画像の左側に出ている馬印(旗)です。黒い馬に乗っている武将が「大庭三郎影親」で、
馬印持ち足軽が側で馬印を掲げています。このようなことも戦国時代に
入ってからの事のようです。


余談、この事を調べる中で、「吾妻鏡」の翻訳したものを読んでいくのですが

この「石橋山の合戦」の後、頼朝は真鶴岬より安房に脱出し、9月13日上総に、17日下総に、
19日隅田川の河原に上総介広常2万騎が到着、10月1日、石橋山合戦で分散していた
多くの武将が
鷺沼の宿の頼朝のもとに集まり、
翌日10月2日、3万騎の頼朝軍は
大井・隅田の両川を渡り、武蔵国へと進軍するが、同日、その隅田宿で・・・・・

「源頼朝の乳母・寒河尼(さむかわに)、その子小山朝光を伴い参陣」
とあるのが、後に当ギャラリーのある茨城県結城市に館をかまえた
結城の初代城主結城朝光(ゆうきともみつ)
数え年14歳ということになります。

結城市では、10月2日=結城朝光の日になっています。
「おもちゃのメンコ」の話が、結城朝光の日の話になってしまいました。

06年7月27日追加

このあと、結城朝光出てくる浮世絵を3点程見つけましたので、
新たに、
「結城七郎朝光」のページを追加することになりました。
これから3巻に分けてアップしていく予定です
ご期待ください・・・・・・・


●お宝発見!03年1月増刊号第46巻 
「泥面子の絵柄をよく見てみるとこんな事が見つかりました。」
でも色々な泥メンコの紹介をしています。


大の字三つの紋」知っている方おりましたらご連絡ください。》

連絡先ya-ma-da@mvd.biglobe.ne.jp

08年10月20日追加

埼玉県の千代田さまより「大の字三つの紋」についての情報をいただきました。
埼玉県東松山市正代にある御霊神社(鎌倉権五郎景正(政)公を祭った神社)
鬼瓦に「大の字三つの紋」があるそうです。
次の様な写真も添付してくれました。


まさに、大の字三つの紋」の泥メンコと同じです。
千代田さま、貴重な情報ありがとうございました。






- 参考文献 -
世界の消防自動車図鑑・・・KKワールドプレス
小田原市、おだわら百貨事典・小田原の歴史・HP
貨幣博物館錦絵コ−ナ−・HP
河童が淵・HP