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● 参考資料1. ●

伊豫守義経
源義朝の九男
頼朝や範頼とは異母兄弟、
母は、後に平清盛の子を産む常盤御前。平家追討では、搦手の大将として数々の手柄を立てるが、頼朝の承諾なしに法皇から官位を受けたとして、領地を没収。伊豫守は、頼朝の策略で、名前だけのものだった。


蒲冠者範頼
⇒源義朝の六男
頼朝や義経とは異母兄弟、
母は、遠江国(とおとうみ)池田宿の遊女だった。生れた所が三河国(みかわ)蒲御厨(かまのみくりや)なので、蒲の冠者と呼ばれた。平家追討では、大手の大将として戦う。一ノ谷の戦いのあと、参河守(みかわのかみ)となる。


武蔵坊弁慶
⇒義経の家来、
義経記を中心とした後世の物語で知られ、色々な伝説の持ち主の人気のキャラクターある。


那須の与一
⇒屋島の戦いで、平家方の立てた扇の的を射落としたという弓の名手とされる。「与一」は11男という意味らしい。下野国、那須の与一宗隆、平家物語では(宗高)と書いている。

伊豫
(伊予)⇒(いよ)愛媛県

参河
(三河)⇒(みかわ)愛知県の東部


遠江
(とおとうみ)静岡県の西部

摂津
(せっつ)大阪市、境市、神戸市などの一部

播磨
(はりま)現在の兵庫県南西部三草(みくさ)はこの播磨にある。

●「10月宣旨」
寿永2年(1183年)10月に
後白河法皇が源頼朝に東海・東山道の荘園公領回復と従わない者への処置を任せると言う宣旨で、頼朝に実質的な東国支配を認める。

●「上総介廣常」謀殺。
「10月宣旨」
による頼朝の法皇との妥協による政策転換に反対したためとの可能性が強い。」これにより鎌倉は出撃上洛派に傾く。

●「愚管抄」(ぐかんしょう)天台宗僧侶の慈円の書いた、鎌倉時代初期の史論書



● 京都の状況 ●
寿永2年(1183年)
6月、木曽義仲追討の平家軍が加賀で敗れ、義仲軍京都に迫る。

7月、平家一門が、都を離れ、義仲軍が入京する。

9月、源行家に「平家討伐」の院宣、義仲には「直ちに平家討伐」の院宣。

10月、備中国で、平家と義仲軍が戦い、義仲軍敗れる。
後白河法皇と頼朝との妥協が成立「10月宣旨」

11月、義仲、法皇と天皇を幽閉。後白河法皇、
鎌倉へ救援を要請。播磨で義仲軍平家軍に敗れる。

寿永3年(1184年)
1月11日、義仲、征夷大将軍に任命。同20日「宇治川の戦い」で義仲軍は義経軍に押され近江国栗津へ逃亡の末
討死する。

この間に平家は福原に戻り、東の生田、西の一ノ谷、山手の鵯越などに砦を築く。

1月26日、(吾妻鏡は29日)
「平家追討軍」京都を進発
大手、範頼軍5万6千騎
搦手、義経軍1万騎

2月4日、範頼軍、義経軍は
摂津に到着。攻撃の日時を7日卯の刻と決める。同日義経軍は三草山の陣に夜襲を仕掛け突破、鵯越で軍を二分し義経は70騎で山中を進み、一ノ谷の裏手に廻る。

2月7日早朝、
範頼は、梶原景時、畠山重忠ら5万騎で東側の生田口を攻撃、義経軍の土肥実平も西側の塩屋口を攻める。双方激闘の末予想もしなかった一ノ谷の裏手からの義経の奇襲攻撃で一ノ谷の平家軍は陥落し、混乱状態となった平家軍は、塩屋口、生田口も突破され、海に逃れる。


● 参考資料2. ●

宗政長沼五郎宗政
小山宗政のこと(朝光の兄)


朝政小山小四郎朝政(朝光の兄)

西海⇒(さいかい)西海道
「五紀七道」の一つで、九州とその周辺の島々をさす。


参州
⇒(さんしゅう)三河国のことで、ここでは三河守範頼のこと

豊後⇒(ぶんご)大分県のこと

公文所⇒(くもんじょ)
公的文書(公文)を保管し取り扱う役所

問注所⇒(もんちゅうじょ)
訴訟事務を所管する機関

別当(べっとう)
その機関の長官

寄人(よりゅうど)
その機関の職員


屋島(やしま)香川県高松市にある半島

阿波(あわ)徳島県。

彦島
⇒(ひこしま)山口県下関市にある島

逆櫓
(さかろ)舟の前後に櫓をつけ自由に舟を操れる装置

扇の的(おおぎのまと)
平家物語、平家方の女性を乗せた小船の舳先につけた扇を那須与一が射落とすと言う話

弓流し(ゆみながし)
平家物語、海中に弓を落とした義経が弱弓を恥じ、命がけで弓を拾い上げたと言う話。

周防(すおう)山口県の東南あたり

平教経
(たいらののりつね)平教盛の次男、平家随一の猛将として名高い。

二位ノ尼
(にいのあま)平清盛の正妻 清盛との間に宗盛、知盛、重衡、建礼門院徳子らを生む。壇ノ浦で、外孫に当たる安徳天皇を抱き、海中に身を投じた

安徳天皇⇒(あんとくてんのう)第81代の天皇。母は建礼門院、祖母である二位ノ尼に抱かれて入水し、8歳で崩御

平宗盛(たいらのむねもり)
平清盛の三男。母は清盛の正室、時子(二位ノ尼)
平家一門の棟梁となるが、際立った政治的手腕はなく、凡人であったとされる。


建礼門院徳子⇒(けんれいもんいんとくこ)安徳天皇らとともに入水するが、源氏方に捕らえられ、捕虜として京に送られるが、やがて出家して直如覚と号する。その後、大原寂光院に入り、そこで残りの生涯をおくる。

墨俣(すのまた)岐阜県大垣市

駘馬(たいば) 轡(くつわ)をはずした馬

梶原景時⇒(かじわらかげとき)

梶原平三景時
。通称は平三(へいざ、へいぞう)。は平氏の三男の意味。

石橋山の戦いで平氏に属し源頼朝と戦うが、敗軍の頼朝を見逃してその危機を救い、後に重用される。上総広常を謀殺したり、ここでは、義経をの不義を頼朝に訴える。

頼朝の死後は、源頼家を補佐するが、しかし政敵である
結城朝光を讒訴したことから、三浦氏・和田氏らと対立。1199年(正治元年)諸将66名の連判状が頼家に提出され、頼家により追放される。


廷尉⇒(ていい)検非違使尉(けびいしのじょう) ここでは義経のこと

前の内府父子⇒(さきのないふおやこ) 平宗盛とその子清宗のこと

『腰越状』⇒(こしごえじょう)義経が頼朝に対し叛意のないことを延々と書き綴り、大江広元宛に託した有名な書状。

「堀川夜討」⇒(ほりかわようち)義経の京での住まい、六条室町堀川殿からこう呼ばれる。

『文治の勅許』⇒(ぶんじのちょくきょ)文治元年の年号からこう呼ばれる。
大江広元の献策と云われ、北条時政が軍事力を背景にして、義経追捕の名目で、後白河院が渋るのを押し切り、諸国に守護
(治安と警察の権限)地頭(武力を背景に徴税権)を設置する権利を認めさせたこと。

●源頼朝による政権が成立したと解釈できる。


資料として使わせて頂いたHP
ウィキペディア(Wikipedia)
畠山重忠研究
「三浦三崎ひとめぐり」
鎌倉歴史散策加藤塾 
義経デジタル文庫
KAMON WARLD
千葉一族、千葉介の歴代


書籍・辞書等
凡灼P掉可゙図説日本j
国芳の狂画 東京書籍
歌川国芳 新潮日本美術文庫
新村出偏 広ォ苑 岩波書店
明解 古語辞典 三省堂

元暦元年(1184年)8月8日 平家追討軍が出発

元暦元年8月8日 甲子 晴
参河の守範頼平家追討使として西海に赴く。午の刻進発す。旗差(旗これを巻く)一人、弓袋一人、相並び前行す。次いで参州(紺村濃の直垂を着し、小具足を加え、 栗毛の馬に駕す)、次いで扈従の輩一千余騎龍蹄を並ぶ。所謂、

北條の小四郎 足利蔵人義兼 武田兵衛の尉有義 千葉の介常胤  境の平次常秀 三浦の介義澄 男平太義村 八田四郎武者朝家  同男太郎朝重 葛西の三郎清重 長沼の五郎宗政 結城の七郎朝光 籐内所の朝宗 比企の籐四郎能員 阿曽沼の四郎廣綱 和田の太郎義盛  同三郎宗實 同四郎義胤 大多和の次郎義成 安西の三郎景益  同太郎明景 大河戸の太郎廣行 同三郎 中條の籐次家長 工藤一臈祐経 同三郎祐茂 天野籐内遠景 小野寺の太郎道綱  一品房昌寛 土左房昌俊

以下なり。武衛御桟敷を稲瀬河の辺に構え、これを見物せしめ給うと。
左「印」(きわめいん)
下は版元、泉屋市兵衛

朝櫻樓国芳画」と書いてある国芳の「号」
小山朝政・結城朝光等、小山勢の動向
上の図中、史実との相違点はここ!
図G.右側画像の上中央の部分
いないはずの上総介廣常

(かずさのすけひろつね)
図D.義経の家臣団がそろって描かれている

浮世絵で見る!結城七郎朝光

浮世絵に描かれた
結城朝光、18歳頃

            

図H.右側画像の下右端部分
小山朝政と結城七郎朝光
左[一勇斎国芳」号、中・右「朝桜楼国芳」号、(歌川国芳)画、大判三枚続き]
平家追討の出陣を賀しゐふ図
今回は、右図のような長い表題がついている浮世絵3枚続きの物です。
大きな部屋の一段高い帳台構
(ちょうだいかまえ)の上座に「右大将 源頼朝」が座し、89名の家臣団が勢揃いしている。

頼朝の御前に向かって右に「蒲冠者範頼」
(かまのかんじゃのりより)が臥(ふ)し、左の「伊豫守義経」(いよのかみよしつね)が頼朝に向かい何か物を申し述べているシーンです。二人の前には大将が指揮を執(と)るための采配(さいはい)が猫足の机の上に置かれている。出陣を祝う言葉を言上(ごんじょう)しているのだろうか。
右大将(うだいしょう)頼朝公(よりともこう)平家追討(へいけついとう)として
蒲冠者範頼
(かまのかんじゃのりより)源九朗義経(みなもとくろうよしつね)
両大将
(りょうたいしょう)にて源氏恩顧(げんじおんこの)の諸軍勢
(しょぐんぜい)
出陣を賀
(が)しゐふ圖(づ)
図F.隅田宿での
上総介廣常
2万騎を引き連れ参陣した。
画像B伊豫守義経」と「蒲冠者範頼
軍の指揮を執る采配
画像A.浮世絵の表題
はたして、実際にこのような場面があったのかは,はなはだ疑問ではあるが・・・・・・・
図E.那須与一の姿もみえる
以上の様な史実との違いなどは、浮世絵にとっては取るに足らない事であったと思う。前にも書いたが、浮世絵は興味をそそるものでなければ売れない。頼朝は、右大将の方が強そうだし義経伊豫の守の方がカッコイイ範頼は、義朝が遊女に生ませた子としての蒲の冠者の方が興味をそそる。あるいは、朝光頼朝の落胤(おとしだね)ということで描かれているのかも知れない今の週刊誌の見出しのようなものだと思えば納得できるでしょう。
●結城七郎朝光が、小山朝政より上座にいるのもおかしい。吾妻鏡などの記述をみても結城朝光は必ず、小山朝政の下に書かれている。
第1巻、隅田宿で、2万騎を引き連れ参陣した東国最大の武力を持つ上総介廣常は、平家追討軍が京を進発する1ヵ月程前の12月16日に、頼朝の命をうけた梶原景時により謀殺されるが、この図には参列している。「双六うちて、さりげなしにて盤をこへて、やがて頸(くび)をかいきりてもちきたるける。まことしからぬ程の事也。」(愚管抄)に書かれている。
第2巻、平家追討の出陣を賀しゐふ圖
●状況的に見て、これらの人物が頼朝の前に勢揃いする事は出来ない。
 平家追討のため、
義経、範頼が両大将として出陣するのは、寿永3年(1184年)の1月26日である。前年の「10月宣旨」により、鎌倉を出陣する時は、木曽義仲討伐のためで、義仲討伐後に平家追討の宣旨がありそのまま急ぎ京から出陣する。(頼朝は鎌倉にとどまる。) 2月7日「一ノ谷の戦い」に勝利し、いったん京都に凱旋する。

 次の平家追討
は鎌倉に帰省中範頼
平家追討司令官を任じられる。同年8月8日騎馬1千騎を率い鎌倉を出る。この時頼朝長谷稲瀬川に桟敷を設け壮行会を行ったとある。 (義経は京都の警護を続けていた。)
●「右大将源頼朝」とあるが、右大将とは「右近衛大将」(うこのえのたいしょう)のことで、頼朝が任じられたのが建久元年(1190年のこと、征夷大将軍を望んでいた頼朝はすぐに辞する。(平家追討の6年後の官位)そして、後白河法皇が亡くなり、1192年にやっと征夷大将軍となり、「鎌倉時代」が始まる。(いいくに作ろう鎌倉幕府)です覚えてますか?

平家追討出陣
の頃、「10月宣旨」で頼朝は「右兵衛佐」(うひょうのすけ)として、やっと東国支配を認められたところである。
●「伊豫の守義経」になっているが・・・ 義経に伊豫の守の除目が行われたのは、文治元年(1185年)8月で、(平家追討の翌年) 平家追討のため出陣する時伊豫の守源義仲(木曽義仲)だった。

義経を伊豫の守としているのに、範頼は蒲の冠者であるのも変だ、
「一ノ谷の戦い」の後、範頼は「参河の守」(みかわのかみ)を拝領し、吾妻鏡にも「参河の守範頼、平家追討使として西海に赴(おもむ)く。」と記されている。
この様な源平合戦を題材にしたもの、特に義経が出てくるものなどは人気があり、中世の物語「義経記」から草子物・絵双紙など出たり、歌舞伎の演目にもなっている。(下図D、武蔵坊弁慶はじめy義経の家臣が勢揃いしているし、下図E、那須の与一の姿も見える)
国芳は、いったい何を元にしてこの図を画いたのだろう?・・・昔の映画などでは、良く見られる場面のようだが、いろいろな資料等を照らし合わせて上の図のような光景は実際にはありえないのだ。前の隅田宿のページでも書いているが、元々浮世絵は、こういうものなのである。
歌川国芳(うたがわくによし)《寛政9年(1797年)〜文久1年(1860年)》
この絵が出版されたのは、国芳の号に「朝桜楼」が使われるのと、「極」の改印(あらためいん)から、江戸時代の後期、天保7年(1836年)頃〜天保13年(1842年)頃らしいことがわかる。
浮世絵は、史実を伝えるためのものでは無く、人気を博し売れることを目的として描かれたものなのである。それは、描かれた当時の江戸の庶民の興味とか好みに沿ったものであったとも言えるでしょう。
この絵を見ただけで、平家追討に参加した源氏側の武将達が一覧出来るという便利さも考慮したものと思われます。 平家追討軍オールスター勢揃いといったところ。
結城七郎朝光も脇役ではありますが、江戸時代の人達にも認識されていたということにもなるでしょう。
木曽義仲討伐として、小山朝政、長沼宗政、結城朝光達三兄弟は、大手(おおて)範頼軍に加わっていたようだ。戦いの様子は、搦手(からめて)義経軍については、宇治川を渡るところの「宇治川の戦い」があまりにも有名で、色々な資料に馬の名前まで細かく書かれていますが、範頼軍については記載が少ない。1月20日に京に入り、「木曽義仲が誅(ころ)された」との飛脚が小山朝政より届く、の記述が吾妻鏡にあるくらいで、同26日「平家追討軍」として京を発つ。
吾妻鏡、[寿永(じゅえい)3年(1184年)2月5日 甲子]
酉の刻、源氏の両将摂津(せっつ)の国に到る。七日卯の時を以て箭(や)合わせの期に定む。 大手の大将軍は蒲の冠者範頼なり。 相従うの輩(やから)、
小山の小四郎朝政 武田兵衛の尉有義 板垣の三郎兼信 下河邊庄司行平 長沼の五郎宗政 千葉の介常胤 以下省略
以上、吾妻鏡には、2月7日卯の時(午前6時頃)を戦闘開始とする・・・と書かれているが、ここに結城朝光の名が見当たらない。困ってしまい、平家物語を見ることに、(これが、かなで書かれたもので、ひらがなをえんえんと読みとばして・・・やっとのことで見つける事ができました。)
平家物語 巻第九 
(流布本元和九年本)三草勢揃(みくさせいぞろへ)の文中をやまのこしらうともまさ、なかぬまのごらうむねまさ、ゆふきのしちらうともみつ、(^-^)
「一ノ谷の戦い」は、予定通りの7日卯の時をもって始まり、平家軍を破る。大手軍では、(梶原の二度懸) 搦手軍では、(義経のひよどり越え逆落し)などが伝説となっている。この戦いは、吾妻鏡平家物語源平盛衰記などに詳しく書かれているが、それぞれ異なる記述がされているようだ。
次は、「文治五年、源頼朝郷奥州征伐図」一猛斎芳虎(歌川芳虎)画になります。

話が長くなりましたので、第三巻は、上、下と2巻に分けてあります。
上記の通り、8月8日二度目の平家追討軍が鎌倉を出発する。宗政朝光の名前も見える。朝政は、『小山朝政、範頼軍に加わるべく西海に下る。』の記述が9月2日の吾妻鏡に記されている。このとき、後に頼朝に「駘馬(たいば)の道草を喰らうが如し」と云われる、官位兵衛の尉拝領していて、遅れたようだ。
元暦2年(1185年)1月26日 庚戌
惟隆・惟栄等、参州の命(めい)を含み、八十二艘の兵船を献(けん)ず。また周防(すおう)の国の住人宇佐郡 の木上七遠隆兵粮米を献ず。これに依って参州(さんしゅう)纜(ともづな)を解き、豊後(ぶんご)の国に渡ると。
同時に進み渡るの輩 (やから)  北條の小四郎  足利蔵人義兼  
小山兵衛の尉朝政  同五郎宗政   同七郎朝光  武田兵衛の尉有義  齋院次官親能   千葉の介秀胤  同平次常秀 下河邊庄司行平  同四郎政能  浅沼の四郎廣綱  以下省略
範頼軍は、9月1日に京を発つ。途中兵糧米の不足や、兵船が手配できないといった状態に陥った範頼は、物資の救援を求める書状を頼朝に送る翌年1月6日の吾妻鏡に、『去年十一月十四日の飛脚、今日参着す。兵粮闕乏する の間、軍士等一揆せず。各々本国を恋い、過半は逃れ帰らんと欲すと。その外鎮西の條々これを申さる。以下省略』 として九州の国の人達にくれぐれも憎まれるような振る舞いや乱暴な事はしないようにとか事細かに指示をあたえている。それと、もう一通には、降伏してくる国のもの達は、大切に扱うこと。東国の船は2月10頃に国を立つ予定である事。そして、『又小山の者共、いづれをも殊に糸惜しみし給べし。穴賢々々。 』小山の者達を大切に扱いなさい。という事も言い添えてある。
1月26日、ついに範頼軍は九州に上陸する。
上記の通り、範頼軍は九州に渡る。この頃から、吾妻鏡の中で武将達の名前の明記のしかたが変わってくる感じがする。朝光や宗政は、鎌倉を発つときは、結城の七郎朝光、長沼五郎宗政となっていたのが、小山兵衛の尉朝政  同五郎宗政   同七郎朝光のように、朝政は新しい官職名兵衛の尉)を付け記され、朝光や宗政は小山勢として(同)を付け省略されている。以後奥州征伐の時の記載も同様である。 この頃(1184年)10月、頼朝は鎌倉に公文所(くもんじょ)、問注所(もんちゅうじょ)を設置する。京都の下級貴族であつた、大江広元、中原親能、三善康信が別当寄人となったことによるのかも知れない。
元暦2年(1185年)2月20日,  屋島(やしま)の戦い
範頼軍の思わしくない戦況に、
頼朝は京にいた義経屋島攻撃の命令を出す。
摂津の港・渡辺津に軍を集めた義経は、阿波に渡海する。在地の武士を味方にして
屋島を攻め落とす。平家軍は彦島に退いた。『平家物語』には、渡辺津を出航する際の梶原景時との「逆櫓」の論争や、那須の与一が平家の用意した扇の的を射抜く場面や、義経が弓を海に落とす「弓流し」の場面などが事細かにかかれていて、浮世絵の格好の題材として取り上げられている。
元暦2年(1185年)3月24日,  壇ノ浦(だんのうら)の戦い
屋島の戦いで敗北した平家軍は彦島に結集していたが、範頼軍により九州への退路も断たれ兵糧や兵器の補充もままならない状態であった。一方義経軍は軍備を整えつつ、伊予の河野通信や周防の船所正利などの水軍勢力を味方に引き入れ、瀬戸内海の制海権をにぎっていった。
戦いは明け方に始まったという。当初は潮流が平家軍に有利に働き優勢であったが、正午頃より潮流の変化とともに義経軍が攻勢に転じる。やがて、平家不利と見た平家方水軍の松浦党をはじ諸将が義経方に寝返り始めた。命運尽きた平教経は入水し、二位ノ尼安徳天皇と供に入水してからは、平家一門の諸将などが相次いで入水したという。平家方の総大将の平宗盛も入水するが死にきれず、妹にあたる建礼門院徳子と供に源氏の兵に救い出され生捕りにされる。
これで戦いは終わり、ついに平家は滅亡する。
範頼軍は九州に留まり戦後処理をすることとなり、一方義経軍は平家の捕虜を連れて上洛することとなる。4月26日京都に凱旋するが・・・・・・・・
元暦2年(1185年)4月15日、(吾妻鏡)
頼朝の推挙を受けずに朝廷の任官を受けた関東の御家人は、各々在京し陣直公役に勤仕すべき事、もし墨俣(すのまた)以東へ下向した時は、各々本領を取り上げ、また斬罪に申し行わしむべきの状、として国に帰ることを禁止される。『東国住人任官の輩の事』として24人の者の名が記されている。任官を受けた者の最後に朝政
の名前もあった。 『兵衛の尉朝政 、鎮西に下向するの時、京に於いて拝任せしむ事、駘馬(たいば)の道草を喰らうが如し。同じく以て下向すべからざるの状件の如し。』と。
4月21日、梶原景時は、九州から鎌倉の頼朝に報告書を送った。『始めは合戦の次第 を申す。終わりは廷尉不義の事を訴う。』屋島・壇ノ浦の戦いの報告に加えて、義経の行動を批判する内容であった。
4月26日、義経は、生捕った平宗盛らを伴い、京に凱旋する。
4月29日、頼朝は、義経の権限を剥奪する。
5月7日、義経、生捕った平宗盛・清宗
父子を伴い鎌倉に発つ。
5月7日に京都を発った義経一行が囚人平宗盛・清宗父子を引きつれ、相模の酒匂(さかわ)に到着する。北条時政が宗盛・清宗父子を迎えに行くが、義経は鎌倉入りの許可が出ず待たされる。この時使節として義経に伝えたのが、小山の七郎朝光である。 (5月15日の事)

そして、5月24日義経は、政所執事の大江広元宛に自分の無実を訴える書状『腰越状』を差し出すが、返事を得ることができずに京に引き返す。
元暦2年(1185年5月15日 丁酉 (吾妻鏡)〈注.廷尉(ていい)とは源義経のこと〉
廷尉の使者(景光)参着す。前の内府父子を相具し参向せしむ。去る七日出京、今夜 酒匂の駅に着かんと欲す。明日鎌倉に入るべきの由これを申す。北條殿御使として、 酒匂の宿に向かわしめ給う。これ前の内府を迎え取らんが為なり。(中略)廷尉に於いては、左右無く鎌倉に参るべからず、暫 くその辺に逗留し、召しに随うべきの由仰せ遣わさると。小山の七郎朝光使節たりと。
文治元年(1185年)8月29日 頼朝のかねてよりの申請により、知行国の除目が行われ、義経が伊予の守となる。 (8月14日改元、元暦2年⇒文治元年)
同年10月13日、頼朝の命により土佐坊昌俊の軍勢83騎が義経暗殺を企て夜襲を掛けるが失敗に終わる。「堀川夜討」
10月18日、 義経は鎌倉の暗殺刺客の件を訴え、後白河法皇が、頼朝追討の院宣を義経に発する。これを受け義経は挙兵するが、軍勢は集まらなかった。
文治元年(1185年)10月24日 勝長寿院(南御堂)落慶供養 (吾妻鏡)
今日南御堂(勝長寿院と号す)供養を遂げらる。(略)二品(御束帯)(頼朝)御出で。御歩儀。
行列、先ず随兵十四人(略)〈14番目に小山兵衛の尉朝政〉小山の五郎宗政(御劔を持つ)(略)御後五位六位(布衣下括)三十二人、 (略)次いで随兵十六人、(略)〈3番目に小山七郎朝光〉 次いで随兵六十人、(弓馬の達者を清撰せらる。皆最末に供奉す。御堂上りの後、各々門外の東西に候す) (略) 還御の後、義盛・景時を召し、明日御上洛有るべし。軍士 等を聚めこれを着到せしむ。その内明暁進発すべきの者有るや。別してその交名を注進すべきの由仰せ含めらると。半更に及び、各々申して云く、群参の御家人、常胤已下宗たる者二千九十六人、
その内則ち上洛すべきの由を申す者、朝政朝光已下五十八人と。
同10月25日、頼朝上洛の先発隊として小山朝政、結城朝光が出発、源義経追討軍の先鋒を引き受ける。しかし小山隊が京に到着する11月5日には、義経はすでに京を発し摂津に向かっていた。摂津の国大物浦(尼崎市)から船で九州に向かう途中暴風のため難破し、散り散りとなる。その後、数名の家来と供に奥州藤原氏をたより、平泉に向かう。

頼朝は29日に鎌倉を発つ
が、途中横瀬川にて京の情勢を観察、大和守重弘及び一品房昌房らを上洛させ、11月8日上洛を中止し鎌倉に引き返した。
鎌倉方は、この機会を逃さず、11月25日、北条時政が上洛、院に守護・地頭設置にに加えて、諸国からの兵糧米徴収を願い出る。義経追捕を名目として渋る後白河法皇を押し切って、諸国に守護・地頭を設置する権利
(追捕使・地頭補任権)を得る。「文治の勅許」といわれる。

●最近では、
鎌倉時代の成立を、この1185年文治の勅許のときと解釈する方向になっているようだ。