頼朝軍は、下野国(栃木県)、古多橋(宇都宮の下河原町付近)の駅(うまや)に着く。まず二荒山神社に参拝し、(中略)その後宿に入る。その時小山政光が駄餉(だしゅう)を献じた。そうすると紺の直垂(したたれ)を着た者が来た。政光は何処の人かと尋ねると、「彼は日本一の勇士、熊谷直実です」と紹介された。どうしてそう云われるのか?と聞くと、「平家追討のおり、一ノ谷やその他の戦いで、親子共々命がけで幾度も戦ったからだ」という。 |
7月19日、ついに奥州征伐軍が、鎌倉を発す。 |
文治4年2月、義経が奥州で義顕(よしあき)と改名して潜伏していることが発覚。 同年2月、義経追討の宣旨が奥州の基成・秀衡にたいし出される。 同年11月頼朝の要請により、奥州の基成・秀衡に再度義経追討の院宣がでる。 |
二品(にほん)下野の国古多橋(こたはし)の駅に着御す。先ず宇都宮に御奉幣(ごほうへい)御立願(ごりゅうがん)有り。(中略)その後御宿(おんやど)に入御(にゅうご)す。(以下省略) |
前巻の通り、頼朝は文治元年(1185)11月29日、義経追捕(ついぶ)を名目として、「文治の勅許」により諸国に守護・地頭を設置する権利(追捕使・地頭補任権)を得る。 院は、鎌倉の圧迫に屈して12月には、義経の官職を解き、さらに義経追討の院宣もだす。 義経一行は、文治2年10月頃まで京都周辺の逃避行をつづけていたようだが、最後の望みをかけて奥州平泉を目指し、文治3年(1187)2月ついに、藤原秀衡のもとにたどり着く。 |
●西木戸国衡も(上図C.○・図G.)「吾妻鏡」では、追いかけてきた和田義盛によって右肘(みぎひじ)に矢を射られ、退こうとして馬とともに深田に入り身動きができなくなったところに、駆けつけてきた畠山重忠の郎従大串次郎に首を捕られる。「梟首(きょうしゅ)太(はなは)だ速(すみ)やかなり。」とある。大将が深田にはまって簡単に首を捕られたのでは絵にならない。図Gをよく見ると解るが、国衡は大串次郎に後ろから羽交締(はがえじめ)にされているが、勇ましい姿で描かれている。 |
●「征東大将軍源頼朝郷」とあるが、征東大将軍とは「征夷大将軍」(せいいたいしょうぐん)と同じ意味である。第2巻でも書いたが、頼朝が右大将に任じられたのが建久元年(1190年)である。右大将よりも位は低いが、遠征軍司令官という性格上京在住の必要が無く、また、軍政という形での統治権が与えられている征夷大将軍を望んだ頼朝はすぐに辞する。上図F そして、後白河法皇が亡くなり、1192年にやっと征夷大将軍となり、「鎌倉時代」が始まる。(いいくに作ろう鎌倉幕府)です。この奥州征伐の3年後のことである。 ●最近では、鎌倉時代の成立を.1185年の文治の勅許のときと解釈する方向になっているようだ。 |
●小山七郎朝光が馬に乗り、槍を構えていたり、(図H、)上記の和田義盛も弓を射ているはずなのに、長い槍を突いている。(図A○) 槍が、戦場で使われるのは、南北朝時代、建武2年(1335)11月、新田義貞軍の下で戦った菊地氏が、箱根・木ノ下の戦いにおいて2mほどの竹の先に短刀を縛り付けた兵器を考案し一千名の兵で、足利直義(ただよし)の軍三千名を敗走させたとされる。「菊地千本槍」の伝説があり、この槍の登場でその後の戦法に大きな影響を与えたとされている。これは、戦場で集団で使う長槍の戦法のことで、鉾などは武器として古くから使われている。 |
●(図A、B、)に描かれている背景の石垣に白壁の城、も違う。この戦いでの城は城柵(じょうさく)を構えた砦で、その周りには2重の濠(ほり)と、その前後に土塁が築かれて阿武隈川の水を流し込んでいたと吾妻鏡には書かれている。 もし、これが他の城であっても、この様な形の城郭は戦国時代に入ってからである。この阿津賀志山防塁は、厚樫山の中腹から南に下り、阿武隈川の旧河道である滝川までの3.2qにわたり今でも存在していると言う。 |
●(図A、B、C)に描かれている色々の纏(まとい)や旗幟(はたのぼり)陣幕(じんまく)などに派手な紋章などがあるのもおかしい。第1巻の墨田宿の図ではあえて指摘はしなかったが、源平合戦のころは、平家が赤旗、源氏が白旗を掲げていたが、平家が滅亡すると、白旗同士の戦いになる。、 頼朝は、奥州征伐のため、「奥州征討旗」を千葉常胤に命じ作らせる。小山朝政が献上した絹を用い、一丈二尺の白旗を二福。そして、上に伊勢大明神・八幡大菩薩、下に鳩を二羽向い合せにして縫いとる。と吾妻鏡にある。白旗に白糸の刺繍をしたもののようである。 |
前巻でも書いているが、この様な史実との違いなどは、浮世絵にとっては取るに足らない事であった。とは言っても、この戦いで大将西木戸国衡が和田義盛に疵(きず)を負わされ、駆けつけてきた畠山重忠の郎従大串次郎に首を捕られる様子はきちんと描かれていますし、後の論功行賞で和田義盛と畠山重忠で手柄を取り合うところの話も考慮して、重忠を義盛の後ろに配置しているし、義盛の槍の矛先も、国衡に向かって伸びている。義盛の弓を槍に変えたのも、戦いに迫力をもたせるために考えた、絵師芳虎なりの表現だったのだろうとも思える。 |
第3巻は、右上図のような表題の「文治5年源頼朝郷奥州征伐の圖」になります。 これは、最初に見つけた浮世絵大判3枚続きの物で、上の絵のように結城(小山)朝光が馬に乗り、 槍を掲げて突進していくところが描かれています。(下図○の部分) 文治5年の「奥州合戦」阿津賀志山の戦いの大木戸の場面です。 ここで朝光は、金剛別当秀綱を討ち取る。 そして、阿津賀志山の陣大敗の知らせを聞いた奥州平泉の当主藤原泰衡(やすひら)は、 周章狼狽(しゅうしょうろうばい)して戦わずして奥州のさらに奥に逃亡したと云う。 泰衡の兄、西木戸太郎国衡(にしきどたろうくにひら)も逃亡するが、 深田に入り、ついに大串重親(おおぐししげちか)に首を捕られる。 (下図○) |
[一猛斎芳虎」(歌川芳虎)画、大判三枚続き]○内、結城(小山)七郎朝光 |
奥州征伐までの鎌倉の動向、(結城朝光小山勢関係、) |
巳の刻(みのこく)、二品(にほん)奥州の泰衡(やすひら)を征伐せんが為発向(はっこう)し給(たま)う。(中略)御進発の儀、先陣は畠山の次郎重忠なり。先ず疋夫(ひっぷ)八十人馬前(ばぜん)に在(あ)り。五十人は人別(ひとべつ)に征箭(そや)三腰(みこし)(雨衣(あまい)を以てこれを裹(つつ)む)を荷(に)なう。三十人は鋤鍬(すきくわ)を持たしむ。次いで引馬三疋(さんびき)、次いで重忠、次いで従軍五騎、所謂(いはゆる)長野の三郎重清・大串の小次郎・本田の次郎・榛澤(はんさわ)の六郎・柏原の太郎等これなり。凡(およ)そ鎌倉出御(いで)の勢一千騎なり。次いで御駕(おんが)(御弓袋(おんゆふくろ)差し・御旗(みはた)差し・御甲冑(ごかっちゅう)等、御馬前(ごばぜん)に在(あ)り)以下省略。 |
●藤原三代とは 初代、清衡(きよひら) 二代、基衡(もとひら) 三代、秀衡(ひでひら) 平泉の中尊寺金色堂に、この藤原三代の遺体が納められている。それに加え4代泰衡の鼻を削ぎ落とされ頭から釘を打ち付けられた痕のある首も発見された。 藤原秀衡の遺言(玉葉) 秀衡死去の刻に則し、兄弟は融和をなせ、(兄は、他腹の嫡男也、弟は当腹太郎云々)他腹嫡男に当時の妻を娶らせしむをもって云々。各に異心あるべからずの由、祭文(さいもん)を書かせおはりぬ。又、義経に同じく祭文を書かせぬ。義経をもって主君となし、両人給仕すべくの由遺言あり。よって三人一味となり、頼朝の躊栄(ちゅうさく)を襲うべく(策を)廻らすと云々、(後略) ●三代、秀衡の子 嫡男、国衡(くにひら) 西木戸太郎(にしきどたろう) 二男、泰衡(やすひら) 泉冠者(いずみかんじゃ) 三男、忠衡(ただひら) 泉三郎(いずみさぶろう) 四男、高衡・隆衡(たかひら) 本吉冠者(もとよしかんじゃ) 五男、通衡(みちひら) 出羽冠者(でわのかんじゃ) 六男、頼衡(よりひら) ●「平泉実記」 寛延4年(1751年) 相原友直 著 ●「平泉志」(巻之上) 明治18年(1885年) 旧一関藩教成館学頭 高平眞籐 偏 編者離孫 菅原直諒 増注 前民部少輔基成 (さきのみんぶのしょうしょうもとなり) (1143年〜1148年)の5年間、陸奥守・鎮守府将軍として奥州ですごした、中央のエリートの官僚である。 そして、これ以降も奥州の政治顧問的な立場となり、奥州に残ったとされる。 そして、基衡の嫡男秀衡に自分の娘を嫁がせ、後に彼女は泰衡を生む。 その娘は秀衡の死後、先の遺言により、前妻の子国衡の妻となる。 |
吾妻鏡、文治5年8月10日の一遍 又、小山の七郎朝光、 金剛別当(こんごうべっとう)を討つ。 その後退散の武兵等(ぶひょうら)、 泰衡(やすひら)の陣に馳(は)せ向ひ、 阿津賀志山(あつかしやま)の陣大敗するの由(よし)これを告(つ)ぐ。 泰衡(やすひら)周章(しゅうしょう)度を失い逃亡し、奥方(おくかた)に赴(おもむ)く。 |
歌川芳虎(うたがわよしとら)《生年未詳〜明治20年頃?(1888年?)》 この絵が出版されたのは、「村」の改印(あらためいん)一つから、江戸時代の後期、天保14年7月(1843年)頃〜弘化3年11月(1846年)頃らしいことがわかる。名号は一猛斎(いちもうさい)の他に、辰二郎、永島辰五郎、辰之助、錦朝楼(きんちょうろう)、猛斎(もうさい)、がある。 |
芳虎は、歌川国芳の門人、天保の頃〜明治時代前期にかけて、武者絵、役者絵、開花絵、相撲絵などを得意として活躍する。嘉永3年(1850年)には、師、国芳の「きたいな名医難病療治」と供に町奉行所のお咎(とが)めを受け、連名で始末書を提出したとか、国芳の13回忌に訳あって門人から退けられたとかのエピソードがあるにもかかわらず、生年・没年も不詳という不思議な絵師である。 |
この図の題材である奥州合戦は、前回の源平合戦に比べ人気がないようだ。上図に描かれている阿津賀志山の戦い以外にこれと言った題材がない。藤原泰衡の人気の無さからきているのだろうか。藤原氏の当主となった泰衡は一度も戦うことなくして逃亡に逃亡をかさね、蝦夷地(北海道)に逃れようとするが、頼っていった比内郡(ひないぐん)贄柵(にえのさく)《秋田県大館市》で、譜代の家臣、河田次郎に首を捕られてしまうのだ。逃亡の途中泰衡は頼朝に命乞いの手紙も出している。 |
この奥州合戦から遡(さかのぼる)事1年半前の文治3年(1187)10月、京から落ち延びてきた義経を快く向かい入れ擁護してきた、泰衡の父「藤原秀衡」が病死する。その時秀衡は兄弟一致して義経の采配(さいはい)のもとに結束し国を治めるようとの遺言を残す。 |
藤原秀衡には五人の息子がいた。嫡男(ちゃくなん)国衡、二男、泰衡、三男、忠衡、四男、隆衡、(高衡)、五男、通衡である。家督は正妻の子である二男の泰衡が継ぐことになった。長男国衡は父秀衡の正妻(泰衡の母)を娶(めと)る。この秀衡の正妻は、秀衡の父基衡の時代に鎮守府将軍として京から赴任して、そのまま平泉に留まった前民部少輔基成の娘である。基成は平泉と朝廷とのパイプ役として重要な地位を占めていた。秀衡は自分の正妻を長男に譲ることにより、長男国衡と当主となる泰衡の分裂を避けようとしたと思われる。 |
「平泉実記」には、「通衡ヲモ泉冠者ト云、其弟ニ錦戸太郎頼衡、文治五・二・十五泰衡誅之トイヘリ」という記述があり、、もう一人六男頼衡がいて、文治5年2月15日、泰衡により誅(ころ)されたとあるが、「平泉志」では、「頼衡あるは信ずるに足らず」として息子は5人と書いている。《この記述は3男忠衡のことなのかも知れない。》 3男忠衡は同6月26日泰衡に討たれる。 もう訳がわからなくなってしまいますね。(-_-)「平泉志」の方が信頼度が高そうな気がします。 |
奥州合戦までの平泉の動向 |
こうして、泰衡は義経を討ち、また、反目する弟の忠衡も討つ。義経の首は酒浸けにして、4男の隆衡(高衡)に鎌倉へ届けさせるが、兄頼朝は姿を見せず、和田義盛・梶原景時らが確認し藤沢に葬られたと云う。元々頼朝の狙いは奥州支配そのものであったので、この義経を匿(かくま)い許可無く討伐した事を口実として、法皇の院宣の出ないまま、ついに頼朝自ら28万の軍勢を従え奥州征伐に出陣する。 |
奥州征伐の途中宇都宮で、佐竹氏が源氏の白旗を掲げて参陣した時に、頼朝は白旗を使うことを不可として、旗上に付けるようにと「出月」(いでしつき)の扇を与えたことが「吾妻鏡」に書かれてる。 |
後に佐竹氏はこの時の「出月」の扇を家紋とするが、これが武士が掲げる家紋や旗幟の始めとされている。武士が家紋をつけるようになるのは鎌倉時代に入ってからで、戦場で派手な纏や馬印・旗指し物を付けるのは戦いの陣容が複雑になってくる戦国時代に入ってからのようです。 |
この頃は、戦う前に各武将が大きな声で名乗りを上げて(自己紹介をしてから)戦ったていたので、それほど目印は要らなかったのでしょう。 |
この様な、3枚続きの絵は、1枚づつでも絵として見られる様になっていて、図Bは、小山朝光を頂点として、先ほど書いた、畠山重忠、和田義盛、を配した三角形の構図を中心にまとめられているし、図Dは、敵の大将国衡の奮闘を中心にまとめている。中の図Cは、馬に乗って刀を上段に構えた由利八郎知重と、左手と左膝を地面に付けて奮戦している下須房太郎秀方を左側の中下に描き、右中上に派手な陣幕と旗幟を並べバランスをとっている。この様な時間も場所も違う場面を一つの空間の中に上手く納めることにより、これを3枚並べて奥州征伐の全体の図になるように描かれているのである。 私個人としては、芳虎さんに小山朝光が討ち取った、「金剛別当秀綱」を図Cの左中上辺りに描いてほしかったなぁと思っています。 |
文治3年(1187)9月27日、畠山重忠の代官、詐欺・横領により、重忠は千葉常胤に預けられるが、重忠は断食をして謹慎し、10月、千葉常胤の仲介により許され国に帰る。 11月15日、重忠に反逆の企ての風評あり、との梶山景時の報告により、頼朝はこのことについて、小山朝政、下河辺行平、結城朝光、三浦義澄、和田義盛らと協議する。朝光は次のように重忠の無罪と調査を進言する。小山朝政、下河辺行平も同調。頼朝は「下河辺行平は弓馬の友であり、早く重忠の許へ行って、真偽を確かめ、異心なくば共に参上せよ」と命じた。 |
朝光申して云(いわ)く、重忠天性(てんせい)廉直(れんちょく)を稟(う)け、尤(もっと)も道理を弁(わきま)え、敢(あ)えて謀計(ぼうけい)を存ぜざる者なり。然(しか)れば今度の御気色(けしき)、代官所犯の由(よし)に依(よ)って雌伏(しふく)せしめをはんぬ。その上殊(こと)に神宮の照鑒(しょうかん)を怖畏(ふい)するの間、更に怨恨(えんこん)を存ぜざらんか。謀叛(ぼうはん)の條(じょう)定(さだ)めて僻事(へきじ)たらんか。専使(せんし)を遣(つか)わされその意を聞こし食(め)さるべしてえり。 |
11月21日、行平は、畠山重忠のもとに向かい重忠に事情を話す。重忠は疑いを受けたことを恥じて腰刀で自害をしようとしたが、行平の懸命の説得で思いとどまった。そして行平は重忠を伴い鎌倉に帰った。梶原景時に起請文を書くように言われるが、重忠は心と言と異なるものではないとこれを拒否し景時はそのまま頼朝に報告をする。そして行平は頼朝より御剣を給わった。 |
雪降る、雷一声。 (中略)今日小山の七郎朝光の母(下野大掾政光入道後家)下野の国寒河郡(さむかわぐん)並びに網戸郷(あじとごう)を給う。これ女性たりと雖(いえど)も大功有るに依ってなり。 |
○○源頼朝下文 (花押) 下(くだす) 下野(しもつけ)の国寒河(さむかわ)郡並びに阿志土(あじと)郷 早く小山七郎朝光母堂(ぼどう)を以て地頭職(じとうしき)に為(な)すべき事 右、件(くだん)の所、早く朝光之(の)母を以(もっ)て、地頭職に執行令(しぎょうせし)む可(べし)。住人宜しく承知し、遺失(いしつ)すること勿(なか)れ。 以(もっ)て下(くだ)す。 文治三年十二月一日 |
畠山重忠は天性の精錬潔白(せいれんけっぱく)、正直(せいちょく)の者で、もっとも道理をわきまえており、あえて謀(はか)り事などしない人である。それでも、この度の事は自身の代官の犯した事であるので、将来のためを思い耐え偲んでいるのに、その上、とりわけ神宮の神がすべてを見据えているという恐れを知っている者が、さらに恨をもつ事などあるだろうか。謀反(むほん)を企(くわだ)てることなどは絶対に考えられないことではないのか。特別の使者を遣わして気持を確かめるべきである。と朝光は言った。 |
●上の文解釈、とかその他につきまして、お気づきの点などありましたらご連絡ください。 |
上は、結城朝光の母で、「寒河の尼」と呼ばれた人が、地頭に任命されたときの吾妻鏡の記述とその時の地頭職補任状[皆川文書]の文面です。実際のものは縦書きで、(花押)の所に頼朝の左画像のような花押(特別なサイン)がしてあります。女性の地頭ということもあり、教科書でも紹介されていたり、入試問題集などにも良く出てきます。結構有名な文書です。 |
文治5年2月、奥州の基成・秀衡に対し義経を召し出すよう再度に渡り要請する。 同年2月、頼朝、京に義経に与同する者を示し、追捕の要請をする。 同年4月、頼朝、院に対し奥州の藤原秀衡追討の宣旨の督促をする。 同年閏4月30日、義経、泰衡により基成の館(衣川館)を攻められ自害する。 同年6月13日、義経の首が鎌倉に到着、和田義盛、梶原景時が確認する。 |
文治5年6月30日、奥州征伐の準備が進むが、院宣が出ない。頼朝は、武家の古老、大庭景能(おおばかげよし)に意見を聞く。景能は、「軍中は、将軍の令(れい)を聞き、天子の詔(みことのり)を聞かずと。すでに奏聞(そうもん)を経(へ)らるるの上は、強(あなが)ちその左右(とこう)を待たしめ給(たま)うべからず。(以下省略)」と答えた。これにより頼朝は決意したと言われる。 |
奥州に御下向(ごげこう)有るべき事、終日沙汰を経らる。この間三手(さんて)に相(あい)分けらるべし。東海道(今の常磐道)の大将軍は、千葉の介常胤・八田右衛門の尉知家、各々一族等並びに常陸・下総両国の勇士等を相具(あいぐ)し宇多(うた)行方(なめかた)を経(へ)て岩城(いわき)岩崎(いわさき)を廻り、逢隈河(あぶくまがわ)の湊(みなと)を渡り参会(さんかい)すべきなり。北陸道の大将軍は、比企の藤四郎能員・宇佐美の平次實政は、下道(しもみち)を経て上野(こうずけ)の国高山(たかやま)・小林(こばやし)・大胡(おおこ)・佐貫(さぬき)等の住人を相催(あいもよう)し、越後(えちご)の国より出羽(でわ)の国念種関(ねずがせき)に出て、合戦を遂(と)ぐべし。 二品(にほん)は、大手(おおて)、中路(なかみち)より御下向(ごげこう)有るべし。先陣は畠山の次郎重忠たるべきの由(よし)これを召(め)し仰(おお)す。 |
次いで、合戦の謀(はか)り、その誉(ほまれ)れ有るの輩(やから)無勢(むぜい)の間(かん)、定めて勲功(くんこう)を彰(あらわ)し難(がた)きか。然(しか)れば勢(ぜい)を付けらるべきの由(よし)定めらる。仍(よ)って武蔵(むさし)・上野(こうづけ)両国内の党者(とうしゃ)等は、加藤次景廉・葛西の三郎清重等に従い、合戦を遂(と)ぐべきの由(よし)、義盛・景時等を以(もっ)て仰(おお)せ含(ふく)めらる。 次いで御留守(おんるす)の事、大夫屬入道(だいふさかんにゅうどう)に仰す所なり。隼人の佐・藤判官代・佐々木の次郎・大庭の平太・義勝房以下の輩候(こう)すべしと。 |
鎌倉出御(しゅつご)より御共(おんとも)の輩(やから)、 武蔵の守義信(よしのぶ) 遠江の守義定(よしさだ) 参河の守範頼(のりより) 信濃の守遠光(とおみつ) (中、武将名14名省略)小山兵衛の尉朝政(おやまひょうえのじょうともまさ) 同五郎宗政(ごろうむねまさ) 同七郎朝光(どうしちろうともみつ) 下河邊庄司行平(しもこうべのしょうじゆきひら) (以下120人の武将名省略) |
8月7日、ついに奥州征伐軍が、陸奥国、国見駅に着く! 下巻に続く |
資料として使わせて頂いたHP 三浦三崎ひとめぐり 鎌倉歴史散策加藤塾 畠山重忠研究 KAMON WARLD 福島民友新聞 蝦夷陸奥歌枕 源義経デジタルミュージアム ウィキペディア(Wikipedia) |
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書籍・辞書等 国芳の狂画、東京書籍 明解古語辞典、三省堂 くずし字用例辞典、東京堂出版 歌川国芳、新潮日本美術文庫新村出偏 広辞苑、岩波書店 地図で訪ねる歴史の舞台、帝国書院 ビジュアルワイド図説日本史、東京出版 |