頼朝軍は、下野国(栃木県)、古多橋(宇都宮の下河原町付近)の駅(うまや)に着く。まず荒山神社に参拝し、(中略)その後宿に入る。その時小山政光駄餉(だしゅう)を献じた。そうすると紺の直垂(したたれ)を着た者が来た。政光は何処の人かと尋ねると、「彼は日本一の勇士熊谷直実です」と紹介された。どうしてそう云われるのか?と聞くと、「平家追討のおり、一ノ谷やその他の戦いで、親子共々命がけで幾度も戦ったからだ」という。
7月19日、ついに奥州征伐軍が、鎌倉を発す。
文治4年2月、義経が奥州で義顕(よしあき)と改名して潜伏していることが発覚
  同年2月、義経追討の宣旨が奥州の基成・秀衡にたいし出される。
  同年11月頼朝の要請により、奥州の基成・秀衡に再度義経追討の院宣がでる。
文治5年(1189年)7月25日 癸未 [吾妻鏡] 下野国、古多橋
二品(にほん)下野国古多橋(こたはし)の駅に着御す。先ず宇都宮に御奉幣(ごほうへい)御立願(ごりゅうがん)有り。(中略)その後御宿(おんやど)に入御(にゅうご)す。(以下省略)
次は、奥州征伐軍が、国見駅に到着。いよいよ阿津賀志山での戦いが始まります。
規程のページの容量を越えてしまい製作不能となってしまいましたので、やむをえず上巻下巻に分けることにしました。続きは第三巻の下をご覧ください。
前巻の通り、頼朝は文治元年(1185)11月29日、義経追捕(ついぶ)名目として、「文治の勅許」により諸国に守護・地頭を設置する権利(追捕使・地頭補任権)を得る。
院は、鎌倉の圧迫に屈して12月には、義経の官職を解き、さらに義経追討の院宣もだす。
義経一行は、文治2年10月頃まで京都周辺の逃避行をつづけていたようだが、最後の望みをかけて奥州平泉を目指し、文治3年(1187)2月
ついに、藤原秀衡のもとにたどり着く。
西木戸国衡も(上図C図G.)「吾妻鏡」では、追いかけてきた和田義盛によって右肘(みぎひじ)に矢を射られ退こうとして馬とともに深田に入り身動きができなくなったところに、駆けつけてきた畠山重忠郎従大串次郎首を捕られる「梟首(きょうしゅ)(はなは)だ速(すみ)やかなり。」とある。大将が深田にはまって簡単に首を捕られたのでは絵にならない。図Gをよく見ると解るが、国衡大串次郎後ろから羽交締(はがえじめ)にされているが、勇ましい姿で描かれている。
●「征東大将軍源頼朝郷」とあるが、征東大将軍とは「征夷大将軍」(せいいたいしょうぐん)と同じ意味である。第2巻でも書いたが、頼朝が右大将に任じられたのが建久元年(1190年である。右大将よりも位は低いが、遠征軍司令官という性格上京在住の必要が無く、また、軍政という形での統治権が与えられている征夷大将軍を望んだ頼朝はすぐに辞する。上図F
そして、後白河法皇
が亡くなり、1192年にやっと征夷大将軍となり、「鎌倉時代」が始まる。(いいくに作ろう鎌倉幕府)です。この奥州征伐の3年後のことである。
●最近では、鎌倉時代の成立.1185年文治の勅許のときと解釈する方向になっているようだ。
●小山七郎朝光が馬に乗り、を構えていたり、(図H、)上記の和田義盛も弓を射ているはずなのに、長いを突いている。(図A が、戦場で使われるのは、南北朝時代、建武2年(1335)11月、新田義貞軍の下で戦った菊地氏が、箱根・木ノ下の戦いにおいて2mほどの竹の先に短刀を縛り付けた兵器を考案し一千名の兵で、足利直義(ただよし)の軍三千名を敗走させたとされる。「菊地千本槍」の伝説があり、このの登場でその後の戦法に大きな影響を与えたとされている。これは、戦場で集団で使う長槍の戦法のことで、鉾などは武器として古くから使われている。
(図A、B、)に描かれている背景の石垣に白壁の城、違う。この戦いでの城は城柵(じょうさく)を構えた砦で、その周りには2重の濠(ほり)と、その前後に土塁が築かれて阿武隈川の水を流し込んでいたと吾妻鏡には書かれている。
もし、これが他の城であっても、この様な形の城郭
戦国時代に入ってからである。この阿津賀志山防塁は、厚樫山の中腹から南に下り、阿武隈川の旧河道である滝川までの3.2qにわたり今でも存在していると言う。
(図A、B、C)に描かれている色々の(まとい)旗幟(はたのぼり)陣幕(じんまく)などに派手な紋章などがあるのもおかしい。第1巻の墨田宿の図ではあえて指摘はしなかったが、源平合戦のころは、平家が赤旗、源氏が白旗を掲げていたが、平家が滅亡すると、白旗同士の戦いになる。、

頼朝は、奥州征伐のため、「奥州征討旗」千葉常胤に命じ作らせる。小山朝政が献上したを用い、一丈二尺の白旗を二福。そして、上に伊勢大明神八幡大菩薩、下にを二羽向い合せにして縫いとる。と吾妻鏡にある。
白旗に白糸の刺繍をしたもののようである。
前巻でも書いているが、この様な史実との違いなどは、浮世絵にとっては取るに足らない事であった。とは言っても、この戦いで大将西木戸国衡和田義盛に疵(きず)を負わされ、駆けつけてきた畠山重忠の郎従大串次郎に首を捕られる様子はきちんと描かれていますし、後の論功行賞和田義盛畠山重忠手柄を取り合うところの話も考慮して、重忠義盛の後ろに配置しているし、義盛槍の矛先も、国衡に向かって伸びている。義盛弓を槍に変えたのも、戦いに迫力をもたせるために考えた絵師芳虎なりの表現だったのだろうとも思える。
図H、(図A中上)
槍を構えて馬に乗る
小山七郎朝光
第3巻は、右上図のような表題の「文治5年源頼朝郷奥州征伐の圖」になります。
これは、最初に見つけた
浮世絵大判3枚続きの物で、上の絵のように
結城(小山)朝光が馬に乗り、
槍を掲げて突進していくところが描かれています。(下図
の部分
文治5年の「奥州合戦」阿津賀志山の戦いの大木戸の場面です。

ここで朝光は、金剛別当秀綱を討ち取る。
そして、阿津賀志山の陣大敗の知らせを聞いた奥州平泉の当主
藤原泰衡
(やすひら)は、
周章狼狽
(しゅうしょうろうばい)して戦わずして奥州のさらに奥に逃亡したと云う。

泰衡の兄、西木戸太郎国
(にしきどたろうくにひら)も逃亡するが、
深田に入り、ついに大串重親
(おおぐししげちか)に首を捕られる。 (下図
「文治5年源頼朝郷奥州征伐の圖」
[一猛斎芳虎」(歌川芳虎)画、大判三枚続き]内、結城(小山)七郎朝光

浮世絵で見る!結城七郎朝光

図F、(図A中左)
征東大将軍源頼朝郷
と書いている。
奥州征伐までの鎌倉の動向(結城朝光小山勢関係、)
図E.
左、
号「一猛斎芳虎」
(いちもうさいよしとら)

右上、
改印「村」の単印、
村田佐兵衛のよう。

右下、
版元「山甚板」とあるので、山城屋甚兵衛のようだ。
文治5年(1189年)7月19日 奥州征伐軍が鎌倉を出発!
巳の刻(みのこく)二品(にほん)奥州の泰衡(やすひら)征伐せんが為発向(はっこう)し給(たま)う。(中略)御進発の儀、先陣は畠山の次郎重忠なり。先ず疋夫(ひっぷ)八十人馬前(ばぜん)に在(あ)り。五十人は人別(ひとべつ)征箭(そや)三腰(みこし)(雨衣(あまい)を以てこれを裹(つつ)む)を荷(に)なう。三十人は鋤鍬(すきくわ)を持たしむ。次いで引馬三疋(さんびき)、次いで重忠、次いで従軍五騎、所謂(いはゆる)長野の三郎重清・大串の小次郎・本田の次郎・榛澤(はんさわ)の六郎・柏原の太郎等これなり。凡(およ)そ鎌倉出御(いで)の勢一千騎なり。次いで御駕(おんが)(御弓袋(おんゆふくろ)差し・御旗(みはた)差し御甲冑(ごかっちゅう)等、御馬前(ごばぜん)に在(あ)り)以下省略。
● 参考資料1. ●

浮世絵
(うきよえ)
浄土での成仏を願う「来世」に対しての「憂世」(うきよ)から「つかの間の仮の世を浮き浮きと楽しく暮そう」という考え方に変わり、「憂世」→「浮世」の絵からきているらしい。
浮世絵には「肉筆画」もあるが、一般的には、多色刷りの「版画」をさす。
「地本問屋」を
版元として、「絵師」(えし)「彫氏」(ほりし)摺師」(すりし)などの職人をえらび起用する。結果の成功、失敗や、利害得失のすべてを、この版元が負った。

改め印
(あらためいん)
寛政2年(1790)出版物に対する統制令が出され、地本問屋(じほんどいや)の仲間が当番制で行事を勤め、事前に検閲を行った。その事を「改」(あらため)と言い、「極」(きわめ)の印が押された。
寛政12年(1800)より、江戸の町名主から浮世絵などの改掛(あらためかかり)の名主が定められ、名主たちが交代で関るようになる。そして、天保の改革により、地本問屋の仲間が解散させられ、名主が交代で「改」を行うようになり、「極」の印が無くなり、代わりに町名主たちの名前の印が押されるようになる。町名主は数人任命された。)
天保14年(1843)〜弘化3年(1846)11月までが、名主印が一つ(単印)
弘化3年(1846)12月〜嘉永6年(1853)12月
までが、名主印が二つ(双印)となる。


阿津賀志山(あつかしやま)
現在は厚樫山と書く福島県国見町にある、標高289mの低山で、宮城県との県境あたりにに位置する。
今の厚樫山のようすを見る 
阿津賀志山防塁跡
 国見町

『文治の勅許』(ぶんじのちょくきょ)文治元年の年号からこう呼ばれる。
大江広元の献策と云われ、北条時政が軍事力を背景にして、義経追捕の名目で、後白河院が渋るのを押し切り、諸国に守護(治安と警察の権限)・地頭(武力を背景に徴税権)を設置する権利を認めさせたこと。


小山朝政
(おやまともまさ) 結城朝光(小山朝光)の兄、奥州征討旗をつくるため、絹を献上する。
この頃、すでに小山地方が
絹織物の産地であったのだろう。


白旗(しろはた) 平家の滅亡後、赤い旗を掲げる者はいなくなる。千葉常胤や梶原景時、畠山重忠などは平氏であるが、赤旗は揚げない。
つまり、自分がどちら側の軍勢に属するかという意味であったようだ。
頼朝は、この時初めて佐竹氏に白旗の使用を禁止する。つまり白旗は源氏の嫡流の旗で、それを掲げるのは自分だけだと言うことを、示したのかもしれない。


「出月」の扇
(いでしつきのおおぎ)
現在の家紋の名前は日の丸扇となっているようだ。しかし、黒い五本扇に白抜きの丸は、「日の丸」ではなく「月の丸」である。白い扇に黒丸が「日の丸扇」
夜の空に出し白い月、凄く良いデザインですよね。

金剛別当秀綱
(こんごうべっとうひでつな) 名取の太白山にある熊野修験の総帥金剛坊秀綱 らしい。秀衡の家臣で、息子の下須房太郎秀方と並んで「平泉雑記」に、載っている。

下須房太郎秀方 (かすぼたろうひでかた) 金剛別当の息子(13歳)
姓氏類別大観、奥州藤原氏の家系図には、藤原泰衡の子として載っている。

養子になったのかも知れない。

由利八郎知重(ゆりはちろうともしげ) 由利八郎維平(これひら)と同人物かも知れない。藤原泰衡の郎党で、出羽口で、生捕りになるが、「運尽きて囚人となるは、勇士の常」と梶原景時の無礼をたしなめ、礼を尽くした畠山重忠には尋問に答えた。
頼朝は、「勇敢の誉れ」として御家人とした逸話が吾妻鏡に書かれている。歌川国芳も「由利八郎」を役者絵にしている

千葉介常胤(ちばのすけつねたね) 第1巻、墨田宿、にも書いたが、頼朝が、挙兵後最初に300騎を率いて向かえ、頼朝は、「須らく司馬(介)をもって父となす」といい小山氏と供に最も信頼できる武将としてあつかわれていた。奥州征伐では、東海道(今の常磐道)を行く。

和田義盛
(わだよしもり) 和田佐衛門尉義盛、平氏であるが、頼朝挙兵の時から、頼朝軍に加わり、三浦にある所領和田から和田義盛を名乗る。侍所別当を務める。

畠山重忠
(はたけやましげただ)
畠山庄司次郎重忠、平氏、頼朝挙兵時には、同族の三浦氏を攻めるが、頼朝が鎌倉入りした時に三浦義純と共に白旗を持って鎌倉に帰参した。
常に先陣を務めるなど武勇にすぐれ、頼朝の信頼も厚い。

● 奥州平泉の資料 ●

●藤原三代とは
初代、清衡(きよひら)
二代、基衡(もとひら)
三代、秀衡(ひでひら)

平泉の中尊寺金色堂に、この藤原三代の遺体が納められている。それに加え4代泰衡の鼻を削ぎ落とされ頭から釘を打ち付けられた痕のある首も発見された。


藤原秀衡の遺言
(玉葉)
秀衡死去の刻に則し、兄弟は融和をなせ、(兄は、他腹の嫡男也、弟は当腹太郎云々)他腹嫡男に当時の妻を娶らせしむをもって云々。各に異心あるべからずの由、祭文(さいもん)を書かせおはりぬ。又、義経に同じく祭文を書かせぬ。義経をもって主君となし、両人給仕すべくの由遺言あり。よって三人一味となり、頼朝の躊栄(ちゅうさく)を襲うべく(策を)廻らすと云々、(後略)

●三代、秀衡の子
嫡男
国衡(くにひら)
西木戸太郎(にしきどたろう)

二男
泰衡(やすひら)
泉冠者(いずみかんじゃ)

三男
忠衡(ただひら)
泉三郎(いずみさぶろう)

四男
高衡隆衡(たかひら)
本吉冠者(もとよしかんじゃ)

五男、
通衡(みちひら)
出羽冠者(でわのかんじゃ)
六男、頼衡(よりひら)

●「平泉実記」
寛延4年(1751年)
相原友直 著

●「平泉志」(巻之上)
明治18年(1885年)
旧一関藩教成館学頭 高平眞籐 偏
編者離孫 菅原直諒 増注

前民部少輔基成 (さきのみんぶのしょうしょうもとなり) 
(1143年〜1148年)の5年間、陸奥守・鎮守府将軍として奥州ですごした、中央のエリートの官僚である。
そして、これ以降も奥州の政治顧問的な立場となり、奥州に残ったとされる。 そして、基衡の嫡男秀衡に自分の娘を嫁がせ、後に彼女は泰衡を生む。 その娘は秀衡の死後、先の遺言により、前妻の子国衡の妻となる



● 参考資料2. ●

小山下野大掾政光入道(おやましもつけのだいじょうまさみつにゅうどう) 小山政光、妻は寒河の尼で、朝政、宗政、朝光はその子

朝政小山小四郎朝政

宗政
小山(長沼)五郎宗政

朝光小山(結城)七郎朝政

下河辺行平(しもこうべゆきひら)  小山政光の甥、朝光とは従兄弟。 弓馬にすぐれ、吾妻鏡にも多く出てくる。現在の古河市辺りを所領していた。

三浦義澄
(みうらよしずみ) 坂東平氏、頼朝の挙兵時から頼朝軍の加わり、畠山重忠を帰伏させ共に鎌倉に入る。和田義盛の叔父

雌伏
(しふく) 雌鳥が雄鳥に服従するの意、将来活躍の日を期しながらしばらく他人の支配に服して耐えていること

照鑑(しょうかん)  神仏などが明らかに見給うこと

怖畏(ふい) おそれること

大庭景能(おおばかげよし) 頼朝の挙兵時、石橋山で戦った大庭影親の兄、景能は頼朝軍として戦う。武家の古老として相談役的な存在

[五紀七道](ごきしちどう) 東海道ルネッサンスのHP
律令制
の時代に決められた行政区を「道」であらわし、その各国の国司をつないだ幹線道路ということらしい。

東海道(ひがしかいどう) 東に行く海沿いの道と言うことらしい。ここでは常磐道をさしている。

北陸道(ほくろくどう) 現在の北陸道と同じようだ。

中路
(なかみち) 中の道と言うことだろうか?奥州街道、今の国道4号線のよう。

二品
(にほん) 頼朝のこと。頼朝の官位が当時従二位であったかららしい。 二品と言う親王の位があり別の意味があったのかもわかりません。

巳の刻(みのこく) 現在の時刻にすると午前9時〜9時半頃(季節により日照時間が違うため現在の時刻に換算するには、いつの季節かによって1時間半位の差が生じる。)

(匹夫)(ひっぷ) 人足のこと。壕を埋める為に鋤・鍬やその他の土木工事の道具なども用意している。

征箭(征矢)
(そや) 弓の矢

宇都宮
(うつのみや) 二荒山神社のこと。

駄餉
(だしゅう)
 弁当のこと。

直垂(ひたたれ) 武士の平服で武士の地位の上昇と共に正装として認められるようになる。

熊谷直実(くまがいなおざね)

武蔵国熊谷郷(埼玉県熊谷市)を所領したことから熊谷を名乗る。石橋山の戦いでは平家方についたが後に頼朝に従い平家追討で多くの戦功を立てる。
 「一ノ谷の戦い」で、平敦盛(たいらのあつもり)を討ち取り、有名をはせる。笛を取にもどり、船に乗り遅れた敦盛の首を獲る時、 我子、直家と同じ年である事にためらうと云う話が、平家物語に書かれている。

猶子(ゆうし) 兄弟の子

宇都宮頼綱(うつのみやよりつな) 宇都宮成綱の子で、小山政光の猶子。奥州討伐で功績を挙げる
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吾妻鏡、文治5年8月10日の一遍
又、小山の七郎朝光、
金剛別当
(こんごうべっとう)を討つ。
その後退散の武兵等
(ぶひょうら)
泰衡
(やすひら)の陣に馳(は)せ向ひ、
阿津賀志山
(あつかしやま)
の陣大敗するの由(よし)これを告(つ)ぐ。
泰衡
(やすひら)周章
(しゅうしょう)度を失い逃亡し、奥方(おくかた)に赴(おもむ)く。
金剛別当秀綱を討ち取る、結城七郎朝光(小山朝光)21歳の頃
上の図中、史実との相違点はここ!
図G、(図C中下)
西城戸太郎国衡と
大串小次郎重親。
歌川芳虎(うたがわよしとら)《生年未詳〜明治20年頃?(1888年?)》
この絵が出版されたのは、
「村」の改印(あらためいん)一つから、江戸時代の後期天保14年7月(1843年)頃〜弘化3年11月(1846年)頃らしいことがわかる。名号は一猛斎(いちもうさい)の他に、辰二郎永島辰五郎辰之助錦朝楼(きんちょうろう)猛斎(もうさい)、がある。
芳虎は、歌川国芳の門人、天保の頃〜明治時代前期にかけて、武者絵、役者絵、開花絵、相撲絵などを得意として活躍する。嘉永3年(1850年)には、師、国芳「きたいな名医難病療治」と供に町奉行所のお咎(とが)めを受け、連名で始末書を提出したとか、国芳の13回忌に訳あって門人から退けられたとかのエピソードがあるにもかかわらず、生年・没年も不詳という不思議な絵師である。
この図の題材である奥州合戦は、前回の源平合戦に比べ人気がないようだ。上図に描かれている阿津賀志山の戦い以外にこれと言った題材がない。藤原泰衡の人気の無さからきているのだろうか。藤原氏の当主となった泰衡一度も戦うことなくして逃亡に逃亡をかさね、蝦夷地(北海道)に逃れようとするが、頼っていった比内郡(ひないぐん)贄柵(にえのさく)《秋田県大館市》で、譜代の家臣、河田次郎首を捕られてしまうのだ。逃亡の途中泰衡頼朝命乞いの手紙も出している。
この奥州合戦から(さかのぼる)1年半前の文治3年(1187)10月、京から落ち延びてきた義経を快く向かい入れ擁護してきた、泰衡の父「藤原秀衡」病死する。その時秀衡は兄弟一致して義経の采配(さいはい)のもとに結束し国を治めるようとの遺言を残す。
藤原秀衡には五人の息子がいた。嫡男(ちゃくなん)国衡、二男、泰衡、三男、忠衡、四男、隆衡、(高衡)、五男、通衡である。家督正妻の子である二男の泰衡が継ぐことになった。長男国衡は父秀衡の正妻(泰衡の母)を(めと)。この秀衡の正妻は、秀衡の父基衡の時代に鎮守府将軍として京から赴任して、そのまま平泉に留まった前民部少輔基成の娘である。基成は平泉と朝廷とのパイプ役として重要な地位を占めていた。秀衡は自分の正妻を長男に譲ることにより、長男国衡と当主となる泰衡分裂を避けようとしたと思われる。
泰衡は、父秀衡の遺言を守り、頼朝からの度重なる義経討伐拒否し続けていたが、文治4年(1188)2月、朝廷からの義経捕縛追討の宣旨、同年11月再び院宣、頼朝からの催促、その後の度重なる要求に耐えかね、翌文治5年閏4月30日衣川館義経を襲う義経は持仏堂に入り妻子を殺し自害したと云われる。(衣川合戦)としてこの戦いの場面は、「弁慶の立ち往生」など浮世絵の格好の題材となっている。
「平泉実記」には、「通衡ヲモ泉冠者ト云、其弟ニ錦戸太郎頼衡、文治五・二・十五泰衡誅之トイヘリ」という記述があり、、もう一人六男頼衡がいて、文治5年2月15日、泰衡により誅(ころ)されたとあるが、「平泉志」では、「頼衡あるは信ずるに足らず」として息子は5人と書いている。《この記述は3男忠衡のことなのかも知れない。》 3男忠衡は同6月26日泰衡に討たれる。 もう訳がわからなくなってしまいますね。(-_-)「平泉志」の方が信頼度が高そうな気がします。
奥州合戦までの平泉の動向
こうして、泰衡義経を討ち、また、反目する弟の忠衡も討つ義経の首は酒浸けにして4男の隆衡(高衡)鎌倉へ届けさせるが、兄頼朝は姿を見せず、和田義盛・梶原景時らが確認し藤沢に葬られたと云う。元々頼朝の狙いは奥州支配そのものであったので、この義経を匿(かくま)い許可無く討伐した事を口実として、法皇の院宣の出ないまま、ついに頼朝自ら28万の軍勢を従え奥州征伐に出陣する。
図 B、
図 C
図 D
A図、表題
奥州征伐の途中宇都宮で、佐竹氏が源氏の白旗を掲げて参陣した時に、頼朝白旗を使うことを不可として、旗上に付けるようにと「出月」(いでしつき)の扇を与えたことが「吾妻鏡」に書かれてる。
後に佐竹氏はこの時の「出月」の扇を家紋とするが、これが武士が掲げる家紋や旗幟の始めとされている。武士が家紋をつけるようになるのは鎌倉時代に入ってからで、戦場で派手な纏や馬印・旗指し物を付けるのは戦いの陣容が複雑になってくる戦国時代に入ってからのようです。
この頃は、戦う前に各武将が大きな声で名乗りを上げて(自己紹介をしてから)戦ったていたので、それほど目印は要らなかったのでしょう。
この様な、3枚続きの絵は、1枚づつでも絵として見られる様になっていて、図Bは、小山朝光を頂点として、先ほど書いた、畠山重忠和田義盛、を配した三角形の構図を中心にまとめられているし、図Dは、敵の大将国衡の奮闘を中心にまとめている。中の図Cは、馬に乗って刀を上段に構えた由利八郎知重と、左手と左膝を地面に付けて奮戦している下須房太郎秀方を左側の中下に描き、右中上に派手な陣幕と旗幟を並べバランスをとっている。この様な時間も場所も違う場面を一つの空間の中に上手く納めることにより、これを3枚並べ奥州征伐の全体の図になるように描かれているのである。
私個人としては、芳虎さんに小山朝光が討ち取った、「金剛別当秀綱」
図C左中上辺りに描いてほしかったなぁと思っています。
文治3年(1187)9月27日畠山重忠代官、詐欺・横領により、重忠千葉常胤に預けられるが、重忠は断食をして謹慎、10月、千葉常胤仲介により許され国に帰る。
11月15日重忠に
反逆の企ての風評あり、との梶山景時の報告により、頼朝はこのことについて、小山朝政下河辺行平結城朝光三浦義澄和田義盛らと協議する。朝光は次のように重忠の無罪と調査を進言する。小山朝政、下河辺行平も同調。頼朝は「下河辺行平は弓馬の友であり、早く重忠の許へ行って、真偽を確かめ、異心なくば共に参上せよ」と命じた。
上記、結城朝光畠山重忠無罪と調査の進言。 [吾妻鏡]文治3年11月15日
朝光申して云(いわ)く、重忠天性(てんせい)廉直(れんちょく)を稟(う)け、尤(もっと)道理を弁(わきま)え、敢(あ)えて謀計(ぼうけい)を存ぜざる者なり。然(しか)れば今度の御気色(けしき)代官所犯の由(よし)に依(よ)って雌伏(しふく)せしめをはんぬ。その上殊(こと)に神宮の照鑒(しょうかん)怖畏(ふい)するの間、更に怨恨(えんこん)を存ぜざらんか。謀叛(ぼうはん)の條(じょう)(さだ)めて僻事(へきじ)たらんか。専使(せんし)(つか)わされその意を聞こし食(め)さるべしてえり
11月21日、行平は、畠山重忠のもとに向かい重忠に事情を話す。重忠は疑いを受けたことを恥じて腰刀で自害をしようとしたが行平の懸命の説得で思いとどまった。そして行平重忠を伴い鎌倉に帰った。梶原景時に起請文を書くように言われるが、重忠は心と言と異なるものではないとこれを拒否し景時はそのまま頼朝に報告をする。そして行平頼朝より御剣を給わった。
文治3年(1187)12月1日、[吾妻鏡]
雪降る、雷一声。 (中略)今日小山の七郎朝光下野大掾政光入道後家)下野の国寒河郡(さむかわぐん)並びに網戸郷(あじとごう)を給う。これ女性たりと雖(いえど)も大功有るに依ってなり。
 地頭職補任状(じとうしきぶにんじょう) [皆川文書]
○○源頼朝下文
         (花押)
(くだす)  下野(しもつけ)の国寒河(さむかわ)郡並びに阿志土(あじと)
     早く小山七郎朝光母堂
(ぼどう)を以て地頭職(じとうしき)に為(な)すべき事
右、件
(くだん)の所、早く朝光之(の)母を以(もっ)て、地頭職に執行令(しぎょうせし)む可(べし)。住人宜しく承知し、遺失(いしつ)すること勿(なか)れ。  以(もっ)て下(くだ)す。
                     文治三年十二月一日
畠山重忠は天性の精錬潔白(せいれんけっぱく)、正直(せいちょく)の者で、もっとも道理をわきまえており、あえて(はか)り事などしない人である。それでも、この度の事は自身の代官の犯した事であるので、将来のためを思い耐え偲んでいるのに、その上、とりわけ神宮の神がすべてを見据えているという恐れを知っている者が、さらに恨をもつ事などあるだろうか。謀反(むほん)を企(くわだ)てることなどは絶対に考えられないことではないのか。特別の使者を遣わして気持を確かめるべきである。朝光は言った。
上の文解釈、とかその他につきまして、お気づきの点などありましたらご連絡ください。
上は、結城朝光の母で、「寒河の尼」と呼ばれた人が、地頭に任命されたときの吾妻鏡の記述とその時の地頭職補任状[皆川文書]の文面です。実際のものは縦書きで、(花押)の所に頼朝の左画像のような花押(特別なサイン)がしてあります。女性の地頭ということもあり、教科書でも紹介されていたり、入試問題集などにも良く出てきます。結構有名な文書です。
頼朝の花押
文治5年2月、奥州の基成・秀衡に対し義経を召し出すよう再度に渡り要請する。
  同年2月、頼朝、京に
義経与同する者を示し、追捕要請をする。
  同年4月、頼朝、院に対し奥州の藤原
秀衡追討宣旨督促をする。
  同年閏4月30日、
義経、泰衡により基成の館(衣川館)を攻められ自害する。
  同年6月13日、
義経の首が鎌倉に到着、和田義盛、梶原景時が確認する。
文治5年6月30日奥州征伐の準備が進むが、院宣が出ない。頼朝は、武家の古老、大庭景能(おおばかげよし)意見を聞く。景能は、「軍中は、将軍の令(れい)を聞き、天子の詔(みことのり)を聞かずと。すでに奏聞(そうもん)を経(へ)らるるの上は、強(あなが)ちその左右(とこう)待たしめ給(たま)うべからず。(以下省略)」と答えた。これにより頼朝は決意したと言われる。
同7月8日千葉常胤新調の御旗(みはた)を献(けん)ずる。(前の旗幟で紹介している部分)
先に頼朝が命じた
奥州征討旗である。この旗の絹小山朝政が進(しん)す。とある。
また、
下河辺行平は、仰せにより甲冑(かっちゅう)を献(けん)ずる。
同7月12日、頼朝は、京に飛脚を発し、、奥州、泰衡追討の
宣旨の催促をする。
文治5年(1189年)7月17日 奥州討伐の沙汰(さた)を経(へ)らる
奥州に御下向(ごげこう)有るべき事終日沙汰を経らるこの間三手(さんて)に相(あい)分けらるべし。東海道(今の常磐道)大将軍は、千葉の介常胤八田右衛門の尉知家、各々一族等並びに常陸・下総両国の勇士等を相具(あいぐ)し宇多(うた)行方(なめかた)を経(へ)て岩城(いわき)岩崎(いわさき)を廻り、逢隈河(あぶくまがわ)の湊(みなと)を渡り参会(さんかい)すべきなり。北陸道大将軍比企の藤四郎能員宇佐美の平次實政は、下道(しもみち)を経て上野(こうずけ)の国高山(たかやま)・小林(こばやし)・大胡(おおこ)・佐貫(さぬき)等の住人を相催(あいもよう)し、越後(えちご)の国より出羽(でわ)の国念種関(ねずがせき)に出て、合戦を遂(と)ぐべし。
二品
(にほん)は、大手(おおて)中路(なかみち)より御下向(ごげこう)有るべし。先陣畠山の次郎重たるべきの由(よし)これを召(め)し仰(おお)す。
次いで、合戦の謀(はか)り、その誉(ほまれ)れ有るの輩(やから)無勢(むぜい)の間(かん)、定めて勲功(くんこう)を彰(あらわ)し難(がた)きか。然(しか)れば勢(ぜい)を付けらるべきの由(よし)定めらる。仍(よ)って武蔵(むさし)・上野(こうづけ)両国内の党者(とうしゃ)は、加藤次景廉・葛西の三郎清重等に従い、合戦を遂(と)ぐべきの由(よし)、義盛・景時等を以(もっ)て仰(おお)せ含(ふく)めらる。
次いで御留守
(おんるす)の事大夫屬入道(だいふさかんにゅうどう)に仰す所なり。隼人の佐・藤判官代・佐々木の次郎・大庭の平太・義勝房以下の輩候(こう)すべしと。
  鎌倉出御(しゅつご)より御共(おんとも)の輩(やから)
武蔵の守義信
(よしのぶ) 遠江の守義定(よしさだ) 参河の守範頼(のりより) 信濃の守遠光(とおみつ)  (中、武将名14名省略)小山兵衛の尉朝政(おやまひょうえのじょうともまさ) 同五郎宗政(ごろうむねまさ) 同七郎朝光(どうしちろうともみつ)  下河邊庄司行平(しもこうべのしょうじゆきひら) (以下120人の武将名省略)
8月7日、ついに奥州征伐軍が、陸奥国、国見駅に着く! 下巻に続く
政光は、笑って主君のために命を棄てるのは勇士の当たり前の振る舞いではないか直実(なおざね)だけに限った事では無いと。ただし、この人達は、良く仕える郎従(ろうじゅう)がいないから自ら戦い、戦功を立てなければならないが、政光がごときは、ただ郎従を遣わして戦功を得ているばかりである。この度の戦いにおいては、自ら戦って、めざましい戦果を挙げるようにと、子息の朝政・宗政・朝光並びに猶子(ゆうし)頼綱(よりつな)言い渡した頼朝はこれを聞き良い話だと感じ入った。
資料として使わせて頂いたHP
三浦三崎ひとめぐり
鎌倉歴史散策加藤塾
畠山重忠研究
KAMON WARLD
福島民友新聞
蝦夷陸奥歌枕
源義経デジタルミュージアム
ウィキペディア(Wikipedi
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千葉一族、千葉介の歴代
ふつうのおやじのひとり言
アサヒ・コム asahi.com
姓氏類別大観
官制大観
サイバー記念館
奥州デジタル文庫
From Shiwa with Love
書籍・辞書等
国芳の狂画、東京書籍
明解古語辞典、三省堂
くずし字用例辞典、東京堂出版
歌川国芳、新潮日本美術文庫新村出偏
広辞苑、岩波書店
地図で訪ねる歴史の舞台、帝国書院
ビジュアルワイド図説日本史、東京出版