奥州合戦は、初戦の阿津賀志山の戦いで、朝光(結城朝光)鳥取越えの奇襲攻撃により、国衡軍頼みの綱の防塁が役に立たないと思い込み、総崩れとなり、たった3日間で敗北してしまう。この阿津賀志山防塁は、泰衡が、信夫・伊達・刈田の三郡から5千人の人夫を集め、2ヶ月を掛けたと言う。鞭楯(今の仙台市)に陣を構えていた泰衡周章狼狽するのも仕方が無い話、・・・でも逃亡しちゃいけない。奥州藤原氏当主ですから・・・
第1ラウンド、ダウンで
泰衡戦意喪失のTKO勝ち状態で、各地での小競り合い以外この後、大きな戦いは無かったようだ。
文治5年(1189年8月7日 頼朝軍は陸奥国伊達郡阿津賀志山辺の国見駅に着く。
その夜、突然の雷鳴に霹靂
(へきれき)あり、皆恐怖の思いをなしたと。
泰衡は、頼朝軍が攻めてくる事を聞いて、阿津賀志山に城壁を築いて要害を固み、国見の宿と山との中間に、五丈
(ごじょう・約1.5m)の幅の壕を堀り、阿武隈川の水を流し込んで。柵を築いていた。
次は、結城七郎朝光のその後と、この鎌倉幕府成立に向け頼朝に従い戦った武将達の多くが滅びていきますがこの最後、をまとめて見たいと思っています。「朝光小山を称さず。結城の七郎と号し・・・」という吾妻鏡の中の一説も紹介します。
資料の分析が思った以上に手間取っていますので、暫くお待ちください。
[一猛斎芳虎」(歌川芳虎)画、大判三枚続き]内、結城(小山)七郎朝光

浮世絵で見る!結城七郎朝光

● 参考資料1. ●

国見
(くにみ) 
福島県伊達郡国見町

阿津賀志山
(あつかしやま)
現在は厚樫山と書く
福島県国見町にある、標高289mの低山で、宮城県との県境あたりにに位置する。
《今の厚樫山のようすを見る》 
阿津賀志山防塁跡 国見町

金剛別当秀綱(こんごうべっとうひでつな) 名取の太白山にある熊野修験の総帥金剛坊秀綱 らしい。秀衡の家臣で、息子の下須房太郎秀方と並んで「平泉雑記」に、載っている。

下須房太郎秀方(かすぼたろうひでかた) 金剛別当の息子(13歳)姓氏類別大観、奥州藤原氏の家系図には、藤原泰衡の子として載っている。養子になったのかも知れない。

苅田郡
(かったぐん) 宮城県白石市

鞭楯
(むちだて) 仙台市宮城野区、榴岡(ちゅうるおか)歴史民族資料館のある辺りらしい。
泰衡はここに陣をかまえた。


出羽の国(でわのくに) 山形県と秋田県で、(鹿角市と小坂町以外)

近習たるにって祇候 (ちかしゅう)たるによって((ぎんこう)す。 結城(小山)朝光は、頼朝の側近として遣えていたので、宿も同じくしていた。 このため、頼朝を起さない様に、「そっと御寝所を抜け出して」と書かれている。

工藤行光 (くどうもちみつ) 伊豆の国の、工藤庄司景光の長男で、この戦いの功績により、西岩手郡を所領とした。

和田義盛
(わだよしもり) 和田佐衛門尉義盛、平氏であるが、頼朝挙兵の時から、頼朝軍に加わり、三浦にある所領和田から和田義盛を名乗る。侍所別当を務める。

畠山重忠
(はたけやましげただ) 畠山庄司次郎重忠、平氏、頼朝挙兵時には、同族の三浦氏を攻めるが、頼朝が鎌倉入りした時に三浦義純と共に白旗を持って鎌倉に帰参した。
常に先陣を務めるなど武勇にすぐれ、頼朝の信頼も厚い。

下河辺行平(しもこうべゆきひら) 小山政光の甥、朝光とは従兄弟。 現在の古河市辺りを所領する

三浦義澄
(みうらよしずみ) 坂東平氏、頼朝の挙兵時から頼朝軍の加わり、畠山重忠を帰伏させ共に鎌倉に入る。和田義盛の叔父

(匹夫)(ひっぷ) 人足のこと。壕を埋める為に鋤・鍬やその他の土木工事の道具なども用意している。

石那坂
(いしなさか) 福島県福島市の南部、平石地区辺りにあったようだ。

佐藤庄司(さとうしょうじ)(湯庄司)(ゆしょうじ) 湯庄司は佐藤庄司の俗称、飯坂温泉から来た呼び名。源義経に家来として遣わした佐藤継信・忠信の父

常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい) 常陸の国新治郡伊佐荘(茨城県筑西市)を領していた念西は、子息をもって戦い、これにより、伊達郡を与えられ、伊達朝宗(だてともむね)を称する。伊達氏の開祖

伊達郡澤原(だてぐんさわはら) 現在どの辺りなのかは確認できないが、おそらく石那坂の陣の背後に向かう場所だろうと思います。
土湯温泉の方から向かうと石那坂の背後に出る。

宮六兼上仗国平(きゅうろくけんじょうくにひら) 長井斉藤別当實盛(ながいさとうべつとうさねもり)の外甥(がいせい)平家滅亡後、囚人となり、始め上総介廣常に、その後、中原親能(なかはらちかよし)に預けられる。
国平は勇敢であったので、親能は、養子の能直(よしなお)のことを戦いの時に、面倒をみてくれるようにと依頼する。

中原親能(なかはらのちかよし) 公家の中原氏出身。大江広元とは異母兄弟であlるともいわれる。公文所寄人、政所の公事奉行も務める。

藤田宿(ふじたのしゅく) 福島県伊達郡藤田町

土湯の嵩(つちゆのたけ) 会津の方向に向かいとあるので、土湯温泉のことだろうが、地図で見ると、まったく方向が違うので吾妻鏡が石那坂の戦いと混同しているのかもしれない。調べてみても現在のどの辺りを指したのかは分からない。

鳥取越(とっとりごえ) 国見町の小坂峠辺りに今でも鳥取という地名がある。厚樫山の西の方向4km、標高460m。国見から藤田宿、小坂峠、厚樫山、大木戸までの行程は、約20km位だろう。
 結城(小山)朝光が、奇襲攻撃を駆けた事も鳥取越えと言う。

大木戸(おおきど) 国見町大木戸。厚樫山の麓から南西にかけて一帯で、頼朝軍が陣を構えた藤田宿の間を防塁が掘られていた。

周章狼狽(しゅうしょうろうばい) あわてふためき、うろたえること。

千葉介常胤(ちばのすけつねたね) 第1巻、墨田宿、にも書いたが、頼朝が、挙兵後最初に300騎を率いて向かえ、頼朝は、「須らく司馬(介)をもって父となす」といい小山氏と供に最も信頼できる武将としてあつかわれていた。奥州征伐では、東海道(今の常磐道)を行く。

帰降(きこう) 降参すること。

玉造郡(たまつくりぐん) 宮城県大崎市、旧、岩出山町、鳴子町辺り

多賀国府
(たがこくふ) 陸奥国の国府 宮城県多賀城市

葛岡郡
(くずおかぐん) 宮城県玉造郡岩出山町

敗績
(はいせき) 大敗して従来の功績を失う、戦いで大敗すること。

岩井郡(磐井)(いわいぐん) 岩手県奥州市・一関市・平泉町辺りにあった郡

栗原(くりはら) 宮城県栗原市

三迫(さんのはざま) 宮城県栗原市金成町

津久毛橋(つくもはし)宮城県栗原市

数丁(すうちょう) 丁、は距離の単位で六十軒(約109m)

縁辺(えんぺん) まわり

寂寞(せきばく) ものさびしいさま

累跡(るいせき) かさなるあと

郭内(かくない) くるわのうち (一定の区画のうち)

颯颯(さつさつ) 風のさっと吹くさま。また、その音の形容

蕭蕭(しょうしょう) ものさびしいさまや、音声の形容。主として風雨や馬・落葉など。

葛西三郎清重(かさいさぶろうきよしげ) 平氏の流れを汲み、下総国葛西郡を所領していたが、奥州平泉
藤原氏攻めの戦功により奥州気仙・牡鹿・本吉・胆沢・江刺の各郡を得る。

小栗十朗重成(おぐりじゅうろうしげなり) 今の筑西市協和町小栗辺りの常陸平氏、頼朝挙兵の後、常陸の佐竹氏討伐の時頼朝側に付いた。野木宮の合戦でも、小山政朝に加勢して戦った。

千葉六郎胤頼(ちばのろくろうたねより) 千葉介常胤の子であるが、父より高い位を贈られ、常胤より上座に位置する事がしばしばあったと言う。その理由として、和歌などの文芸に通じていたから。たとする文献もある。

衣川館(ころもがわのたち) 今の岩手県 奥州市衣川区上衣川字石神で、
義経が泰樹らに襲われたとされる館で、基成の館である。


前民部少輔基成 (さきのみんぶのしょうしょうもとなり)
(1143年〜1148年)の5年間、陸奥守・鎮守府将軍として奥州ですごした、中央のエリートの官僚である。
そして、これ以降も奥州の政治顧問的な立場となり、奥州に残ったとされる。
そして、基衡の嫡男秀衡に自分の娘を嫁がせ、後に彼女は泰衡を生む。
その娘は秀衡の死後、先の遺言により、前妻の子国衡の妻となる。


濫觴(らんしょう) 物の始まり、物事の起源。おこり。もと。などの意

遠流(おんる) 三流のうち最も重い流罪、近流、中流、遠流があった。

比内郡(ひないぐん) 秋田県の北部、現在は大館市比内町辺り。泰衡が河田次郎に首を獲られたのが、この比内郡贄柵(にえのさく)

厩河(くりやがわ) 岩手県盛岡市安倍館町。

(げい) 獅子のことらしい。

夷狄嶋(いてきしま) 北海道

糠部郡(ぬかのぶぐん) 今の青森県の南西部から岩手県北部にかけての地域にあった。

志波郡(しわぐん) 岩手郡紫波郡紫波町。

陣ヶ岡(じんがおか) 前九年の役の時、 康平五年(1062)源頼義・義家親子が陣を敷いた。(頼義・義家は頼朝の祖先)  ここから、陣ケ岡の地名がおこったと言われている。蜂社は戦勝を祈願して頂上に建立した、蜂神社

狼唳(ろうれい)狼の鳴き声の如く

河田次郎 (かわだのじろう) 比内郡に贄柵(秋田県大館市)に居住する泰衡の譜代の家臣

赤田次郎 (あかだのじろう) 奥州藤原家臣で、阿津賀志山の戦いでは、大将軍として、根無藤の辺りに城郭を構える。とあるが不詳

譜第(ふだい) 代々その主家に仕える家臣

八逆(八虐)の罪(はちぎゃくのつみ) 太宝律令・養老律令の律で定められた八つの大罪、謀反、謀大逆、謀叛、悪逆、不道、大不敬、不孝、不義、をさす。

前九年の合戦(ぜんくねんのかっせん)永承6年(1051)〜康平5年(1062)陸奥の安部頼時の反乱を源頼義が陸奥の守に任ぜられ厨川で、安部貞任を討ち平定する。

入道将軍家源頼義(みなもとのよりよし) 頼義→源義家(よしいえ)→義親(よしちか)→為義(ためよし)→義朝(よしとも)→頼朝に到る。 頼朝の5代まえの先祖。

安部貞任(あべさだとう) 前九年の役で、頼義を攻め窮地に追い込んだが、厨川で、頼義に敗れ、首を長八寸の鉄釘で打たれさらされる。

御館(みたち) 国府の庁藤原氏の当主をさしている。

念種関(ねずがせき) 今の山形県鶴岡市鼠ヶ関

衣川の旧跡(ころもがわのきゅうせき) 前九年の役の、衣川の戦いの遺跡。 頼朝は、130年前の先祖の足跡をこの奥州征伐で、なぞらえている。

由利八郎知重(ゆりはちろうともしげ) 由利八郎維平(これひら)と同人物かも知れない。藤原泰衡の郎党で、出羽口で、生捕りになるが、「運尽きて囚人となるは、勇士の常」と梶原景時の無礼をたしなめ、礼を尽くした畠山重忠には尋問に答えた。
頼朝は、「勇敢の誉れ」として御家人とした逸話が吾妻鏡に書かれている。歌川国芳も「由利八郎」を役者絵にしている

●藤原三代
初代、清衡(きよひら)
二代、基衡(もとひら)
三代、秀衡(ひでひら)


●三代、秀衡の子
嫡男
国衡(くにひら)阿津賀志山で戦い、畠山重忠の郎従、大串次郎に首を獲られる。
二男泰衡(やすひら)四代目を継ぐが阿津賀志山の戦いから、逃亡するが、譜代の郎従 河田次郎に首を獲られる。
三男
忠衡(ただひら)兄、泰衡に討たれ首を獲られる。
四男
高衡隆衡(たかひら)厨川、で投降し、囚人として相模の国に配流
五男、
通衡(みちひら)
出羽冠者(でわのかんじゃ)吾妻鏡には記載がない。
不明
六男、頼衡
(よりひら)一説では、泰衡に討たれたという
工 事 中
図 C
図 D
8月7日、ついに奥州征伐軍が、陸奥国、国見駅に着く。
頼朝軍は、夜に入り、明夜明けに泰衡の先陣を攻撃しようと、内々に、打ち合わせを行う。重忠が鎌倉から連れて来た疋夫八十人に、用意してきた鋤鍬を使い土石を運ばして、夜の間に堀を埋め塞いでしまうことを決める。これで、明日の攻撃が容易になると。・・・・。小山の七郎朝光は、御寝所をそっと(近習たるに依って祇候す)抜け出して、兄朝政の郎従等を従え、阿津賀志山に向った。先に山を登る事による何かの戦略があっての行動だった。
泰衡の異母兄西木戸の太郎国衡を大将軍とし、金剛別当秀綱・その子下須房太郎秀方以下二万騎の軍兵を揃えていた。また、これに加えて苅田郡においても城郭を構え、名取・広瀬両川に、河に大縄を引き馬止めの柵としていた。泰衡国分原鞭楯に陣す。また栗原三迫・黒岩口・一野辺は、若九郎大夫・余平六以下の郎従を大将軍して、数千の勇士を配置した。また、出羽の国は田河太郎行文・秋田三郎致文が警固していた。
文治5年(1189年8月8日 
金剛別当秀綱は数千騎を率い、
阿津賀志山の前に布陣する。卯の刻(早朝5時頃)頼朝、ためしに畠山重忠小山七郎朝光・加藤次景廉・工藤行光・同祐光等に命じて攻撃をし掛ける。

秀綱等これを防戦していたが、(前の晩に壕が埋められ)大軍勢で次々と重なる様に攻めため、巳の刻(午前9時頃)になると、秀綱軍は撤退する。秀綱、大木戸に急ぎ帰り、合戦敗北の報告を大将軍国衡にする。よって、いよいよ計画実行しようと考えた。
ここに常陸入道念西が子息、常陸冠者為宗・同次郎為重・同三郎資綱・同四郎為家等、甲冑(かっちゅう)(まぐさ)の中に隠し入れて伊達郡澤原の辺まで進み出て、秀衡軍に向かい矢石(やいし)を放つ。佐藤庄司等は必死でこれに応戦する。為重・資綱・為家等はここで負傷してしまう。然れども為宗は、必死になって攻戦し、為宗兄弟は、庄司以下の主だった者十八人の首を獲って、阿津賀志山の山上経ヶ岡に梟すなりと。
また泰衡の郎従、信夫の佐藤庄司(またの名を湯庄司と云われる。これ継信・忠信等の父なり)、叔父、河邊太郎高綱・伊賀良目の七郎高重等と共に石那坂の上に布陣する。そして、壕を堀り阿武隈川の水をその中に引き込み、柵を張り廻らせ、引き石弓を備え頼朝軍の攻撃を待っていた。
文治5年(1189年8月10日
卯の刻、(早朝5時頃)頼朝軍は、阿津賀志山を越え木戸口に近づき、懸命に攻撃を繰り返すが、国衡軍は容易に崩れない。その闘戦の声は山野を響かせ郷村を動かす程だった。
その時重忠が大軍を率い馳せ来たる。義盛国衡の間に入り、重忠の郎従、大串次郎国衡に向かう。国衡の馬は、奥州第一の駿馬で、大肥満の国衡は、毎日必ず三度、平泉の高山に駆け登っても汗をかかない馬だったが、国衡義盛次矢を 怖れ重忠大軍に驚き、道をはずれて、深田に打ち入る。数度鞭(むち)を加えても馬あえて上陸するに能(あた)わず。大串等いよいよ理を得て、梟首(きょうしゅ)(はなは)だ速(すみや)かなり。
国衡逃亡したので、頼朝が、追撃を命じると、和田義盛は、先陣を馳せ抜ける。日も暮れて、芝田郡大高宮の辺に来て、国衡は出羽道をへて大関山を越えようと思った。義盛はこれを追い懸け呼び戻し、互いに弓を引き合う国衡は十四束の矢を挟む。義盛十三束の矢を飛ばす。その矢は、国衡が弓を引く前に腕に当る国衡は疵(きず)の痛みに向きを変え逃げだすが、義盛二の箭(矢)を構え相開(あいひら)く。
また小山の七郎朝光金剛別当討つ。その後退散の歩兵らは、泰衡の陣に逃げ帰り、阿津賀志山の陣大敗すると報告をする。泰衡は、周章狼狽(しゅうしょうろうばい)し、奥方に逃亡ししてしまう。
その中金剛別当の子息下須房太郎秀方(かすぼたろうひでかた)(年十三)は残り留(とど)まり防戦する。駆けつけて来た工藤行光(もちみつ)郎従、籐五男(とうごおとこ)と対峙する。顔を見ると幼く見えるので、姓名を問うが何も言わない。しかし、一人で留まったのは何か子細有りと称し、これを誅(ちう)した少年にしては強力(ごうりき)で簡単には倒せなかったと云々。
去る夜、小山七郎朝光並びに、宇都宮朝綱の郎従、紀権の守・波賀次郎大夫以下七人、安籐次(あんどうじ)を山の案内者として、それぞれに甲(よろい)をを疋馬(ひきうま)に負わせ伊達郡藤田宿より会津の方に向かい、土湯の嵩(たけ)・鳥取越(とっとりごえ)を越え、大木戸の上、国衡後陣の山によじ登る。そして一斉に時の声を発し箭(矢)を飛ばすと、国衡の陣は大混乱となり、網を漏れるの魚のように多くの郎従達が逃亡してしまった。
吾妻鏡8月8日記述の、阿津賀志山、石那坂(いしなざか)の戦い!
吾妻鏡8月10日記述の、阿津賀志山、(大木戸)の戦い!
吾妻鏡8月8日の記述は、前半は阿津賀志山の金剛別当秀綱を攻撃し、そして秀綱が撤退、大木戸の本隊国衡軍に敗北の報告をすると言う内容だが、「よって、いよいよ計略を廻らすと云々」が入り、上記の「また泰衡の郎従、信夫の佐藤庄司・・・・」と、急に石那坂の話になる。石那坂は、福島市の南、平石地区辺りといわれる。阿津賀志山とは20q程離れているので、おそらく信夫と伊達郡平野にいた頼朝軍攻撃した話のようだ。
次の日8月9日の記述は、あまり話が長くなるので省略したが、明日10日攻撃開始が決まると、夜の内に、戦功を逸(はや)る武者達抜け駆けをする。先陣の畠山重忠は、「先登(せんと)の輩を妨((さまた)げるのは、武略の本意に非(あら)ず。」と止めようとする郎従に言った事や、抜け駆けをし、戦いぶりが気に入られ息男(そくなん)婿(むこ)入りの契約をした工藤行光や、命を棄てても戦功を挙げなければならない囚人(めしうど)となった武士、宮六兼上仗国平(きゅうろくけんじょうくにひら)の事が書かれている。
また、計略を廻らすと」とは、8月10日の記述の国衡の陣が大混乱となるところに搆塞(こうさい)に益(えき)無し。(はかりごと)を廻(めぐ)らすに力を失い、(たちま)ち以(もっ)て逃亡す。とあり、疋夫八十人による防塁の埋め戻しの他、結城朝光の鳥取越えによる搦手(からめて)の攻撃を指しているのだろう。 そうすると、8月7日の記述の御寝所をそっと抜け出しての部分は8月9日の夜の事とになる。朝光は、8日の早朝からの攻撃に参加しているから。
8月11日「吾妻鏡」 船迫宿で、畠山重忠国衡の首頼朝に献(けん)じ、お褒(ほ)めの言葉を給わる。そこに、和田義盛が出て、国衡義盛矢に当り命を落としたのであって、重忠の功に非ず。と訴える。頼朝の前で検分が始まる。頼朝は、義盛の申す言葉、終始一致するのでその通りだろう。但し、重忠も本当の事を言っている。その時は、郎従が先に、重忠は後から到着したので、義盛の矢を国衡が受けたことは知らなかった。ただ郎従の大串が首を持ち帰ったのを受け取っただけなので、問題は無いとした。《芳虎はこの話を知って重忠義盛後ろに描いている。
畠山重忠と和田義盛
畠山重忠の郎従大串次郎、西木戸太郎国衡の首を獲る!
金剛別当の子息下須房太郎秀方13歳
馬に乗って駆け下る結城七郎朝光!(小山七郎朝光)
月12日、夜に多賀国府(たがこくふ)に到着する。また、海道(きどう)の大将軍千葉介常胤八田知家合流する。
8月13日比企藤四郎宇佐美平次らが、出羽国に打ち入り、泰衡の郎従、田河太郎行文、秋田三郎致文、らを梟首。 頼朝は、多賀国府で休息をとる。
8月14日泰衡が、玉造郡にいるとの情報が入る。頼朝軍は、黒河を経(へ)玉造郡に向かうが、国府中山(こくふなかやま)の上(かみ)物見岡(ものみおか)に陣を取るとの知らせもあったので、小山朝政同五郎宗政同七郎朝光下河辺行平らを向かわせたところ、泰衡はすでに逃亡していて、そこには幕(まく)ばかりが残っていて、留まっていた郎従45人が防戦するが、朝政行平らの武勇をもって、すべて、梟首(きょうしゅ)、または、生捕(せいほ)した。
頼朝軍、(常胤、知家率いる)海道軍と合流し、平泉を目指す!
8月20日、卯刻(うのこく・午前5時頃)頼朝玉造郡に向かったが、泰衡はすでに城を棄てて逃亡していた。残っていた郎従らは、手を束ね帰降(きこう)した。
戌刻、(いぬのこく・午後8時)津久毛橋辺に到るの時、頼朝は、葛岡郡に出て平泉に入るに当り、先陣の軍士、各武将らに、文書を遣わし指示を出す。
「平泉に入るに於いては、泰衡、城を構え軍勢を集め待ち構えているので、わずかに1・2千騎で、向かうべからず。2万の軍兵を相整えて望むべし。すでに、敗績(はいせき)の敵なり侍一人といえども損なうことの無い様、用意いたすべし。」と。
8月21日、大雨と暴風。頼朝軍は、泰衡を追って、岩井郡平泉へ向かう。しかるに泰衡の郎従が、栗原三迫黒岩口等の要害において防戦するがこれを討ち取り、残った30人程を生捕った。頼朝は、平泉に入るべく松山道を経て、津久毛橋に到る。
8月21日、頼朝軍、(栗原、三迫)を破り、ついに平泉に入る!
8月22日、大雨、申刻(さるのこく・午後4時頃)平泉の泰衡の館につくが、泰衡は館を焼き逃亡していた。吾妻鏡にはこの時のさまを次のように書いている。なんとももの悲しい平泉のようすが伝わってくる。
8月23日、頼朝は、京都に向け飛脚を発した。「8月8日、同じく10日両日に合戦を遂(と)げ、昨日(廿二日)平泉に着いた。」と今日までの戦況と、逃げた泰衡を追い探索している旨の報告のため。
8月25日千葉六郎胤頼衣川館に遣わし、前民部小輔基成父子を召(め)す。胤頼が生捕ろうとしたが、基成は武器もとらずに手を束ねて降伏して来たので、子息三人同じく連れて来たと言う。
8月26日早朝、一通の文が投げ入れられる。表書きには、進上鎌倉殿、泰衡敬白とあった。
数丁(すうちょう)縁辺(えんぺん)寂寞(せきばく)として人なし累跡(るいせき)郭内(かくない)、いよいよ(めっ)して地のみあり、ただ颯颯(さつさつ)たる秋の風(ばく)に入るの響きを送るといえども、蕭蕭(しょうしょう)たる夜雨、窓を打つの声を聞かず
西南の隅辺りに一棟の蔵が燃え残っていた頼朝は、葛西三郎清重小栗十朗重成を遣わして調べさせる。中には、紫檀唐木厨子が数脚あり、その中には数え切れない程沢山のの宝物が入っていた。清重、と重成はこの宝物の一つをそれぞれ給わった。
伊予の国司(義経)の事は、入道の扶持(ふち)(たてまつ)りおはんぬ。泰衡は全く濫觴(らんしょう)知らず(うしな)うの後、貴命(きめい)(う)(ちゅう)(たてまつ)りおはんぬ。これ勲功(い)うべきか。しかるに今罪無くして(たちま)征伐有り何故(なにうえ)ぞや。これに依って累代の在所を去り山林に交(まじ)わる。尤(もっと)も以(もっ)不便(ふびん)なり。両国はすでに御沙汰たるべきの上は、泰衡に於いては免除を蒙(こうむ)御家人に列せんと欲す。然(しか)らずんば、死罪を減ぜられ遠流(おんる)処せらるべし。もし慈恵(じけい)を垂(た)御返報有らば比内郡(ひないぐん)の辺に落とし置かるべし。その是非(ぜひ)に就(つ)いて、帰降(きこう)走り参いるべきこの趣(おもむき)これに載(の)せる。
義経のことは、父秀衡面倒を見ていたことで私は全くその基の経緯は知らない貴方の命令により義経誅したのです。これは勲功ではないのか。しかるに、何も罪を犯していないのにいきなり征伐されるのは何故なのか。これにより、古くから住んでいた平泉を去って、山林で暮らしていて、はなはだ不便な思いをしている奥州、出羽の両国統治が済んだときは免除して頂き御家人として欲しい。でなければ、死罪を減じて、遠流にしてほしい。もし、お慈悲により返事を頂けるのなら秋田県大館市付近(比内郡)に落としておいて欲しい。その結果により降伏し急いで参ります。
以上泰衡命乞いの手紙である。こんな手紙を出すのなら、最初から奥州藤原氏四代目など継がず、また、義経を攻めずに早くっ出家でもしていたら・・・・と誰もが思うのではないのだろうか。
9月6日 河田の次郎、主人泰衡の首を持ち、陣ヶ岡に参(まい)る。景時がこれを奉(たてまつ)った。義盛重忠首実検をするので、囚人赤田の次郎を召して見せた処、泰衡の首間違いないと言う。よってこの義盛に預けられる。また景時は、河田次郎に対し、汝がした事一見功有る様に見えるが泰衡は元より頼朝軍の掌中にあったので、他の手を借りなくとも良かった。しかるに譜第(ふだい)恩を忘れ主人の首を梟(きょう)す科(とが)は、八逆(はちぎゃく)の罪に値する。後輩(のちのやから)(こ)らしめんがため朝光に預け、斬罪に処すと
その後泰衡の首級は、前九年の合戦[康平五年(1062)九月]入道将軍家(頼義)安部貞任首級を獲る時にならって長八寸の鉄釘をもって、これを打ち付けた。と吾妻鏡に記されている。
それを聞いた頼朝は、景時に代わり畠山重忠を呼んで、尋問させる重忠は、敷皮(しきかわ)由利の前に持って行き座らせ、礼を正して丁重に聞いた。「貴殿の武将としての誉れ高き事は、兼ねてより聞いているので、我方の勇士達も勲功を立てんがために貴殿を搦め獲った事を、相論(そうろん)している。甲(よろい)や、馬の毛付などを(きわめ)る事が、彼等の手柄を左右することになるのだ。何色の甲(よろい)を着た者のために生虜(いけど)られたのか。申して下さい。」由利八郎重忠の礼法をわきまえた対応に感じて、「黒糸威(くろいとおどし)の甲(よろい)を着し、鹿毛の馬に乗る者が、予(よ)をつかまえ引き落とした。」と言った。重忠は帰って、この事を報告し、この件の甲(よろい)と馬は宇佐美実政のものであることが判明、この疑問は解ける
8月26日、投げ入れられた、一通の手紙!
これより、10日後9月6日、藤原泰衡の郎従河田次郎が、主人、泰衡のを持って頼朝軍の陣が岡(じんがおか)にやって来る。
9月2日、頼朝軍は平泉を出て
岩井郡(いわいぐん)厩河(くりやがわの)辺りに赴(おもむ)く、「これ、泰衡隠れ住む所を相尋ねんがためなり。」とある。
9月3日泰衡、一旦の命害を遁れんがため、隠れること鼠の如く退くこと
(げい)に似たり夷狄嶋(いてきしま)を目差し、糠部郡(ぬかべぐん)に赴(おもむ)く
戦後、昭和25年(1950)平泉中尊寺金色堂にある藤原氏三代の遺体の調査が行われた。そこには、「泉三郎忠衡」と伝えられる首も保存されていたが、この首は、右の耳の付け根から頭蓋骨の一部とともに切られ、頭頂に1ヶ所、後頭部に2ヶ所、そして鼻など数ヶ所に刀傷があるほか、前頭部の中央から後頭部に達する直径1.5cm程穴が貫通していたという。医学的調査と所見を勘案の結果、この首は伝えられた忠衡のものでなく、実は長八寸の鉄釘で打ち付けられて、さらされた藤原氏4代当主泰衡の首級であったことが判明する。
9月7日宇佐美平次實政が、泰衡の郎従、由利八郎を生虜り、相具して陣ヶ岡に参上する。が、天野右馬允則景もこれを生虜ると、これを相論(そうろん)する。 頼朝は、行政に先ず両人の馬並びに甲(よろい)の色等を調べるように言ってから、実否を囚人に尋ね問うようにと、梶原景時に言った。景時は、由利八郎に向って、高飛車な態度で尋問したので、、由利は憤慨して言った。今の口状は無礼である。故、御館(みたち)は秀郷将軍嫡流の正統で、三代にわたる鎮守府将軍である。汝の主人でもこの様な無礼な言い方は出来ないと。まして、汝と我とはまったく対等の立場だ。運尽きて囚人となるは、勇士の常なり。もう問う事には返答しない。という。
8月26日、藤原泰衡の首!
次いで頼朝は、この男は勇敢な者なので、尋ねてみたい事が有るという。重忠は、由利を連れて参上す。頼朝は、由利八郎の恐れを知らぬ,理にかなった返答ぶり感心し、畠山重忠預けることにした。その6日後、厩川の柵で由利八郎は釈放され、出羽の国、由利郡の領地に帰ることが許された。 この事は、吾妻鏡に長々と記されており、歌川芳虎もこの由利八郎を省くことが出来なかったのだろう。出羽の国の念種関(ねずがせき)で戦った武将を、この絵に書き入れている。
9月4日志波郡(しわぐん)に着後す。今日、頼朝陣ヶ岡蜂社(じんがおかはちしゃ)陣せしめ給う。しかるに北陸道の追討使比企能員宇佐美実政等、出羽の国狼唳(ろうれい)(なび)かせ参加するの間、軍士二十八万四千騎(但し諸人の郎従等を加うなり)。面々白旗を打ち立て、おのおの、黄間に倚(よ)せ置くの間、秋の尾花色を混え、晩頭の月勢を添ゆと
由利八郎友重(惟平)
頼朝軍は、この志波郡(しわぐん)陣ヶ岡蜂社(じんがおかはちしゃ)で、北陸道からの追討軍、と合流し、9月11日まで逗留(とうりゅう)し、厩河(くりやかわ)に移る。(盛岡市)ここで7日間程逗留し、19日、平泉に向かう。頼朝は、平泉で秀衡が建立した無量光院を巡礼、同24日葛西三郎清重に平泉の治安維持を命じると共に、伊達郡(だてぐん)盤井郡(岩井)、牡鹿郡(おじか)などをあたえる。同27日衣川の旧跡をおとずれ、28日、生捕った多くの囚人を放免し、(残るは三十余人)、平泉を発つ
10月1日多賀の国府において、頼朝は、地頭等に、郡・郷・庄園の所務について、国郡を費やし土民を煩(わずら)わすべからず、そして庄号の威勢をもって、不肖の道理を押しつけず、秀衡・泰衡先例にあわせて運営するようにと、 一紙の張文を府廰に置いた。翌10月2日には、囚人佐藤庄司・名取郡司・熊野別当等を厚免する。 そして、10月19日、下野の国、宇都宮の社壇に奉幣し、10月24日、申の刻、無事、鎌倉に帰着する。 ここに、文治5年7月19日から三ヶ月間に及ぶ奥州征伐終了した。 
9月7日、景時、重忠の尋問と勇士、由利八郎惟平(友重)!
図 B、
資料として使わせて頂いたHP
「三浦三崎ひとめぐり」
鎌倉歴史散策加藤塾
畠山重忠研究
KAMON WARLD
福島民友新聞
蝦夷陸奥歌枕
源義経デジタルミュージアム
ウィキペディア(Wikipedia)

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