小幡のお店・史跡(小幡近郊も含む)
左から、稲荷大明神社、白山神社、長慶寺、龍泉寺
  稲荷大明神社(生玉稲荷)
毎月1日と15日の朝6時より朝市が行われる。瀬戸街道から守山郵便局脇を経る参道は整備されている。煉瓦が敷かれ、車が猛スピードで走行できないようにするための花壇があるので、歩行者専用道だと間違えないように。
  白山神社
明治43年、愛宕神社(現在の白山神社境内)と付近の諏訪社(字北屋敷)、神明社(字常燈)、白山神社(字東城)とが合併(合祀)し、今の白山神社になった。合祀前の明治5年、白山神社は旧小幡村の村社に指定された。小幡の鎮守様だ。白山神社は600年頃、小墾田王(欽明天皇の皇子)が創建したとされている。
  長慶寺  
臨済宗で号は松榮山。13世紀の豪族・山田正親が兄・兼継の病死後に冥福を祈って建立したとされている。或いは正親の祖父・重忠の建立という説もある。建立時は長兄寺だったが後に長慶寺と改められた。境内には初代の僧・南山士雲の墓とされている無縫塔があり、愛知県指定文化財に指定されている。
  龍泉寺
小幡から区役所前をとおり更に北東に進み、坂を上がった所にある寺院。天台宗で春日井市熊野の密蔵院の末寺。本尊は馬頭観音。天台宗開祖・最澄の創建だという。名古屋市内で有名な寺のようだ。昔、この付近に多くあったという密蔵院系の天台宗の寺のうち廃れずに現存している数少ない寺院の一つである。明治39年の火災で焼失をまぬがれた仁王門や多宝塔は文化財である。
小幡の発展、自然の保存、そして当HPの関心度が高まることを願って鐘楼で鐘を打った(但し1回打つには10円払う必要がある)。合掌。
左から、瓢箪山古墳の立て札、瀬戸街道から信州への古道が北に分岐する所にある祠(天王社というらしいがはっきりした名称は不明)、その祠付近の古道に沿った古い民家、小幡城跡
  瓢箪山古墳
6世紀頃に造られたとされている全長63メートルの前方後円墳で名古屋市の文化財に指定されている。周りには壕があった。瀬戸線瓢箪山駅から瀬戸街道を渡り、住宅地に入ると木々が生い茂った丘が見えてくる。それが瓢箪山古墳。フェンスに囲まれていて中に入ることは出来ない。瀬戸線の瓢箪山の駅名由来はここにある。
  瀬戸街道から分岐する古道
大曽根方面から瀬戸街道・矢田川橋を渡り守山区に入ったばかりの所に真っ赤な祠が祭られているのに気づく。天王社というらしいがはっきりした名称は不明、子供の生育に関する祠らしい。その祠がある所から左に古道が分岐している。瀬戸街道の旧道であるが、瀬戸街道旧道は入ってすぐの角を右に曲り現在の瀬戸街道に合流する。古地図で辿ると曲らずに行けばこの先庄内川を渡り、善光寺街道(現R19)と平行して走っていることがわかる。この古道は一説によれば「信州飯田街道」と呼ばれるが、信州飯田街道は瀬戸街道の別名でもある。大曽根からこの分岐点まで瀬戸街道と重なるせいだろうか名称に関しては定かではない。
  小幡城跡
位置:守山区西城2−16(守山中学校東の道を真っ直ぐ北に行き坂を上った丁字路付近)。居住地付近にも城があったことには感動である。立て札によれば大永2年(1522年)、織田信長の大伯父・敏信とその子・信安の家臣である岡田与七郎重篤の築城といわれている。名古屋城ほどの規模ではないと思うが天守閣や大手門、二重の堀がある城だったという。1535年、徳川家康の祖父・松平清康が信長の父・信秀を討つ時にも使用され、清康が家臣に誤って殺された後(守山崩れ)、信長の叔父・信光の居城になったが信光死後廃城。のちに家康が修復、小牧長久手の合戦(1584年)の時に使われた後、豊臣秀吉が再び廃城にした。崖の上にあることが戦国時代の城らしいところだが、現在この辺りは駐車場や住宅地になっていて城としての面影はない。守山区内には他に守山城、牛牧城、川村城、龍泉寺城、大森城などがあった。この付近に西城、城南町、新城、城下、城土という町名や交差点名があるのは城があった名残といえる。
 
小幡近辺で見られる祠
  住宅地の中の祠
住宅地を歩くと、小さな祠をよく見かける。それらの祠は字(あざ)の鎮守か、かつての小川の水源に祀られていた祠だろうか。若しくは道路の拡幅や住宅建築などで別の場所から移されたことも考えられる。地図に載っておらず、額も説明書きの立て札もないため名称は天王社というそうだがはっきりしたことは不明である。また、それらに関わる伝説がありそうだ。
(写真左から)大字小幡字二軒家(現・喜多山1−1、瀬戸街道喜多山バス停北、「庚申」と彫られた碑がある)、同字山脇(現・小幡南3−17、苗代コミュニーティーセンター北)、同字常燈(現・小幡常燈10、富安病院東の道を北へ真っ直ぐ行った所)。字常燈にあった神明社は白山神社に合祀したことから、常燈の祠は字常燈の鎮守とは考え難い。牛牧付近の祠で高島53番地、川村町183番地、守山3−11(自衛隊近く)で見かけ祠、屋根で保護されている祠が多く、特に守山3の祠は格子に囲まれているほど大切な存在なのか?
 
小幡ヶ原駅跡(左:喜多山方面ホーム、右:小幡方面ホーム)と、笠寺道駅跡(左:瓢箪山方面ホームと旧駅舎、中:小幡方面ホーム、踏切南の古道)
  名鉄瀬戸線廃止駅跡
名鉄瀬戸線の開通は明治38年。当時はフランス製の蒸気動車(ジーゼル車の先駆をなすもの)だった。しかし故障を繰り返したため同40年に電化にふみきった。そして昭和4年に全線複線化。現在守山区内には5駅あるが戦時中までは10駅あった。小幡駅の東隣は小幡ヶ原、西隣は笠寺道。小幡ヶ原は昭和18年に、笠寺道は同19年に廃止された駅であるが、瀬戸街道の踏切を歩いて通ると、土が盛り上がっている箇所があり小幡ヶ原駅のホームの跡であることがわかる。ホームが短いことから1両編成だったようだ。尚、この踏切付近は高架化する予定がありホーム跡も消滅することが予想される。笠寺道の方も踏切横に当時の駅舎が今も残り、ホームの痕跡とみられるところもある。ただ、小幡方面ホーム跡は踏切西側、瓢箪山方面ホーム跡は東側にある。また、踏切の道路は駅名の通り笠寺道という笠寺へ行く古道、踏切の南、坂を下り始める所がカーブになっいて古道らしい。しかしそのカーブを通りすぎれば東山スカイタワーを正面に望められる真っ直ぐに造りかえた道となってしまっていて古道の面影はない。
 
左から、元東春タクシー北の坂道とその坂を下りた先の小川の痕跡、瀬戸街道踏切西(南の方は土地が低い)、踏切南の浅い谷、線路南の崖、踏切南の谷にある溝
 
  河川の跡か
小幡駅から南へ行くと下り坂。その先に守山川や矢田川があるため土地が低くなっているためだが、元東春タクシーの北に位置する東西を走る道に西が高く東が低い坂がある。その坂を下りた交差点の先(ナフコの北に位置する)に南北に設けられた溝があるが、雨天の時以外は水は流れてはいない。区画整理や宅地化で水源地は不明。また、瀬戸街道の瀬戸線踏切の南の方を見ると土地が低いことがわかる。その低い所を通ると谷になっている。谷になっていることはかつて用水路ではない天然の川があったことが考えられる。現在は宅地と宅地の間にドブのような溝があるにすぎない。天然の川には水源があるわけだが、そこも現在はその痕跡すらない。もともと川がないとしたら、矢田川が氾濫を繰り返したための地形の変化によるためかもしれない。
 
上段左から、瀬戸街道の踏切、喜多山駅構内踏切、小幡駅を東方より見る、小幡駅東の旧車両すれ違い、高架化工事で仮設レールが敷かれたものの活用されないままの頃、踏切の向こうは道路恰幅のため空地が多い。下段左から、平成28年9月より瀬戸街道踏切は仮設のものに変更、2〜4番目は瀬戸街道仮設踏切と同じ時に開通した仮設レール。
  間もなく消える瀬戸線の非高架運転
小幡と喜多山の間は高架化工事が進められ、完成予定図が設けられている。が、高架用地は確保されているものの工事は非常にゆっくりペース。その間、非高架時代の瀬戸線の写真は焦らず撮れる。最も保存したい写真は高架駅化が予定されている喜多山駅だろう。かつて首都圏の京王線の幡ヶ谷や代田橋駅にもあった駅構内の踏切の写真に撮って収めねばならぬほどだ。また、瀬戸線もステンレス化しており、京浜急行と言い間違えてしまう真っ赤な車両も撮って保管しておきたい。また、小幡駅も高架化対応しているという。
踏切によって渋滞する瀬戸街道の踏切、同様に渋滞を招く印場駅東の踏切付近も渋滞、そしてそこを渡るバスの遅延の素になるので印場駅も高架化してもらいたい。
仮設レールはできていたもののなかなか活用されないままだったが平成28年9月にようやく使用されるようになった。
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