4.4日目 10月21(月) 木浦総合バスターミナル→珍島・回洞→木浦総合バスターミナル→儒逹山→ホテル 
天気:朝夕は快適昼間はポカポカ
 
起床後の血圧:H123 L79 正常範囲だ。
 
  朝、7時にホテルを出発。天気は昨日に引き続いて晴、珍島(진도・チンド)へ行くのが楽しみだ。珍島へはバスターミナルから市外バスで行く。このため脚の運動、HDLを増やすため、歩いてバスターミナルへ行くこととする。木浦の宿泊施設はやたらとモーテルが多い。ラブホテルのようなイメージがあるが、日本のモーテルと違い安い宿泊施設らしい。が、
木浦の街は西の旧市街と東の新市街とに分かれる。旧市街は急坂だらけで日本式建造物が多く残っているのに対し、新市街は埋め立て地であるため平たんで道路は整備されて新しい建物が多い
日本語が使えるかどうか不安。その代り今は木造の韓式旅館は見かけない。韓式旅館は温泉マークであったが、今温泉マークというとモーテルになってしまう。モーテル街を過ぎ、円形の道を通り過ぎ、写真付きのメニューが貼られた外国人や若者向けの飲食店(焼肉、鍋物が多い)が立ち並んでいる広い道を歩き続ける。道路はまだ混んでいないというか、車の通行はまばらだがやたらと信号待ちが多い。だが信号無視はしなかったし、赤信号がやたらと長い所があったのでそれだけ時間を要した。そして木浦にもあった、横断歩道脇の車輌用右折信号。広い交差点には必ずと言っていいほどある。버스터미널(バスターミナル)の表示がある案内板があったので今のところは安心して通行だ。向こうからやってきた木浦にもいた○○○48のような制服を着た登校中の女子中高生を横目に見ながら五叉路に到着。すると、長距離バスが2~3台やってくる道があったので、その先にバスターミナルがあるだろうとみて、その道に入って進む。そして次の交差点に来る。右方向を見るとまた別のバスが出てくる所がありそこだろうと思ってそちらへ向かう。しかし、そばに来ると市内バスのバス停、ターミナルは見当たらない。これから開く露天商や団地しかない。時刻は7時30分すぎ。今日1回目のミスらしい。運よく付近にタクシーが止まっていたので、「버스터미널(ポストーミノル)」と告げ、走り出した。初めて韓国に来た1989年は指定のタクシー乗り場からでないと乗車できず、また相乗りが普通だった。ところが現在、流しのタクシーを日本と同様に手を挙げて拾えることや相乗りが禁止されていること、随分変わったものだと思った。今回は、私が道に迷っていることを運転手は見ていて停まってくれていたと思えた。さっきの曲がり角を逆に曲がってしまったこと、五叉路も入る道を間違えたことがわかった。すぐに本当のターミナルに到着、初乗り料金2千8百ウォンで済むほど近かった。更に遠くへ間違ったまま行ってしまうより金を払ってまでもバスターミナルに来れてよかったし、目的の時間の珍島行きのバスには充分間に合う。切符売場窓口は4つあ
ったが、どの窓口も長蛇の列になってはいない。全部で10人いるかいないかである。順番はすぐに来て「8시25분 진도까지(ヨドルシイシボブン、チンドッカジ=8時25分、
左から、コンビニ・ファミマはCUとなったが木浦総合バスターミナルまで行く途中にもあった、珍島までの乗車券(時間や座席欄にはアスタリスクが打たれているため自由席)、ホテルから見える榮山湖河口堤防に沿った道路を通って珍島へと向かう。
珍島まで)」と言うと、すんなり券を手に入れることができた。料金は6千5百ウォン。券面を見ると、昨日乗車した釜山・木浦間のような時間・座席指定は無いようだ。시간(シガン=時間)、좌석(チュァソク=座席)の欄はアスタリスクが打たれている。記入されているのは日付と乗り場のみだ。バス出発の8時25分まで時間があるので、構内のセブンイレブンでおにぎりと緑茶を買い、朝食として待合のベンチで食す。そのあと高血圧薬などの服用。5番乗り場には「진도」(チンド=珍島)の表示。1本前のバスのよう。運転手に券を見せ「OK」と尋ねたら、乗ることができた。やはり時間や座席は自由だった。ターミナルで乗り換えて海割れの地である回洞(회동・フェドン)へ行く島内バスの時間、戻るための島内バスの時間が気になるから早めに乗るべきだと思う。右側の前から2番目の席が空いていたのでそこに座る。後ろの方も空席だらけだった。運転手とは別の人が券のチェック、そのあとバスは出発。7時55分であった。

 道路渋滞はない。スイスイと走り続ける。大きな橋を渡る。しかしまだ珍島ではない。別の大きな橋をまた渡ったからわかる。5回程橋を渡る。どうやら今度が珍島に渡る橋のようだ。もうここは農業と漁業の地のようだ。信号があった記憶もない。北海道の街はずれの地を通ったことを思い出す。門の所に犬がつながれている民家が数軒。有名な珍島犬のよ
珍島バス共用ターミナル、古くなっている。
うだ。日本の秋田犬や柴犬に似ている。島内で珍島犬を買うことができるらしい。9時を過ぎ、珍島バス共用ターミナル(진도버스공용터미널・チンドボスゴンヨントーミノル)に到着。所要時間は1時間強だ。回洞への島内バス乗り場はわかったが、時刻表によればあと1時間位待たされるようだ。このため道路で待機しているタクシーに乗って行くこととする。「회동(フェドン)」と言ったが運転手はすぐにはわかってくれず、運転手「아 회동(ア、ヘドン)」、私「에(イェー=はい)」。珍島では回洞のことを「ヘドン」というらしい。「ヘ」といっても「he」ではなく「hoe」らしい。「oe」はオを言う口でエという音でドイツ語のオーウムラウト(Ö)の音、珍島方言には古い発音が残っているらしい。車は出発、舗装はされているがカーブだらけの道を行く。何か月前か何年か前かわからぬが日本人の客が乗ったことがあるらしく、その人の日本語で書かれた手紙を見せてくれた。やはり海割れで有名なところでシーズンである5月連休の時には日本人が多く来ることがわかる。車が走る道の回りは農地、山林ばかり、ターミナル行きとみられる緑の島内バスとすれ違う。農家のおばあさんが道路を歩いており、危ないからブブーとクラクション。おばあさんはすぐにどく。海が見えてくる。向こうには二つの小さな島。いよいよ到着だ。9時20分頃海岸近くで止め、料金は1万7千+幾らか。しかし1万7千ウォンにまけてくれた。
 下車後、早速海を隔てた茅島(모도・モド)と錦湖島(금호도・クモド)を撮影。新月や満月の時の大潮の引き潮時に海割れが起き、また明るい
時に見られるという3~5月の時期ではないので観光客は一人もいない。人がいるとしても漁民とみられる人だけだ。またタクシーも待機していない。これじゃあ帰りはバスに乗るしかない。さっきタクシーから1回だけバスを見たのだし、都市部ではないので待たされることだろう。ただ3~5月以外ので大潮の引き潮の時にも海割れがあることが帰国後わかったが、日の出前や日没後の暗い時に起きるとのことなので時間が合わない。シーズンは春分と夏至の間の明るい時間帯だ。今回も満月の後だから大潮のようだが、月の出、月の入りの時刻は早朝や日没後。見るとしたら珍島で野宿かモーテル泊まりをせねばならない。観光施設としては青いシート屋根がある野外公演場があったが、もちろん誰もいない。刺身が食える店があるようだが看板がないからわからない。わかる建物は回洞敎會(회동교회・フェドンギョフェ)のみ。あと、アワビの養殖場が近くにあるらしい。これといったものはないからバス停へ行ってバスに乗りターミナルに戻ることとした。時刻表が貼られてあり、それによると10時前後にバスが来るらしい。それにしてもポッポして暑い。朝は丁度良かったが今は半袖でもいい位だ。いよいよそのバスが来る時間だ。しかしバスは来ない。時刻表に書かれたバスは臨時か?さらに待たねばならない。屋根付きのバス停で、横の桟では緑の秋の虫が歩いているし、後ろで何かガサガサしていることに気付いて振り向くと珍島犬ではなく、猫。人なれは悪いようで逃げて行った。回洞敎會の向かいの事業所から何かを運ぶトラックが去って行く。何の事業所かは不明だが漁業のことを考えれば、アワビかなんかの海産物を積んであるらしい。一般車やバスはきれいであるが、トラックはポンコツっぽいのが多い。スピーカーで何かしゃべっている。行商?そんな光景を目にし続けていると、10時半頃、遙か向こうの坂道を降りる緑のバスが見えた。やっと来たか!そしてバス停に近づいてくる。が、さっき行った海岸沿いへと曲がって行ってしまった。このバス停からは乗れないと思って私は走ってそのバスを追いかけた。バスは止まっていて、乗客を降ろしていた。乗客は50~60歳代の男性と、回洞敎會のとみられるシスターだけだった。乗客が降りた後、運転手に「버스터미널(ポストーミノル=バスターミナル)?」と尋ねると、「네・ネー=はい」バスターミナルへ行くバスであることがわかった。「얼마이에요(オルマイエヨ=いくらですか)?」と料金はいくらかを尋ねると「이천팔백원(イーチョンパルベグォン=2千8百ウォン)」。他サイトでは2千ウォンと書いてあったから値上がったんだ。支払いを終え着席。運転手は何を言っているのかは全くわからなかったが、どうやらさっきいたバス停から乗ることができたようだったのだ。わざわざ走ってここに来ることはなかったようだ。神奈川県相模原市の小田急電鉄相模大野駅を連想させられる。小田原線と江ノ島線が合流する駅で先にどちらかの車両がかなり前方の新宿寄りに停車。すると後ろにもう一方から来た車両を連結することを知らない乗客たちが慌てて先に到着した車両へと走っていくからだ。しかし、約1時間待ち、やっと乗れたことだし、ちゃんとターミナルに戻れることがわかって安心だ。

 バスは約5分ほど経ってから出発、バス停には誰もいないからそこを通過。ところが、な、何とタクシーで来たバスターミナル方向とは反対へと進むではないか!でも運転手はバ
左から、珍島バス共用ターミナルの塔、右の茅島(モド)左端へと道ができる(左の島は錦湖島・クモド)、茅島右端の方で漁民・漁船しかない、回洞(フェドン)バス停、回洞マウル(村)石の標識(「神秘の海割れ」という添え書きあり)
スターミナルへ行くと言っていたからいいだろう。バスターミナルへ行く系統は2系統あることがわかった。時刻表に経由する(回洞の次のバス停)「초사」(草四・チョサ)、「가계」(佳界・カゲ)と書かれていたわけだ。乗ったバスは佳界経由。料金が高いのは値上がりも考えられるが、やはり遠回りのコースだから高いのだと思う。それにしても窓からの海の眺めがよい。真っ青である。遠回りで料金が高くても、良い景色に出会えたというメリットがある。タクシーで来た近回りのルートであると殆どが森林でつまらない。車内は日本の演歌に似た歌謡曲が流れている。都はるみの「あんこう椿」になんとなく似ている。バス停に到着するごとに一人、二人と乗客は増えてくる。だが高齢者ばかりだ。日本と同様農村部は高齢者が多いのか。バスは内陸部に入る。のどかな
雰囲気の農地や古い曲線的な伝統木造家屋がある中を走り続けけていると、町中に入る。一般店舗が立ち並び、小さな市場がある。どこかの町や村{邑(읍・ウプ)や面(면・ミョン)」という}の中心部らしい。珍島バス共用ターミナルではないので座り続ける。バス停に到着すると降りる客、乗る客、やはり高齢者ばかり。バスは出発、再び農村部に出る。今度は整備された高速並の道路に出る。ターミナルに到着した時刻は11時をまわっていた。約30~40分の乗車、相当の遠回りだった。まるで観光バスのよう。そのバス乗車は最初で最後かもしれない、良い思い出になる。「안녕히계세요.(アンニョンギゲセヨ)」というと、運転手は笑顔で「안녕히가세요.(アンニョンギガセヨ)」。これも一期一会といったところか?今度は木浦へ行くバスの乗車券の購入だ。開いている切符売場の窓口は1か所だけ、今度のバスは11時55分発。「11시55분 목포까지(ヨランシオーシボブン、モッポカジ=11時55分、木浦まで)」と告げ6千5百ウォン支払い券を入手。他にも木浦という客がいる。果たしてバスは混むのだろうか、いやシーズンオフなのでガラすきであることを望む。券を見ると来るときと同様時刻や座席指定はない。やはり当日内でどの木浦行であれば乗れるらしい。40分位間があるからターミナル内を歩く。外には檻のような犬小屋の中に飼われている犬がいる。珍島犬だろう。白いもの、茶色いものとある。ここの職員だろう、餌を与えていた。それを見るとお昼近いので自分も空腹を感じてしまう。構内にはコン
ビニがあるが、木浦到着後に昼食を摂ることとし、水分補給として自販機でジュースを飲むだけとした。麺類などを出す飲食店があり中をのぞくと店の人が呼び込む。いかにも韓国の店らしい。食う気はしないため去った。
 バス出発の時刻が近づいてきたので40分頃乗り場で待つこととした。45分頃やって着た。太った女性運転手は降りたが、他の乗客が乗車したのでそれに続く。車内はテレビがつけられている。やはり運転手以外の人が検札してくる。定刻通りバスは出発。日本にもいるが、今は女性の運転手が増えつつあるよう。3年ほど前釜山・金海空港から釜山驛に行くリムジンバスに乗った時も女性運転手だった。女性の社会進出は韓国でも進んでいるようだ。そういえば今の大統領だって女性だし。バスは朝来た道を逆方向に走行、バス停に停まったり、大橋を渡ることを繰り返しているうちに木浦市内に入る。
 13時23分、木浦バスターミナルに到着。所要時間は約1時間半以内。
 今度はそこからタクシーで木浦驛へ向かう。若い運転手で30代とみられ、やけに飛ばす。駅前の市街に入ったようだ。車の通行量は多い。センターラインに最も近い車線を走行、反対車線が空いていれば、名古屋の片側2車線以上の道にあるような中央分離帯はなく、センターラインを越え逆走して前の車を追い越す。或いはブカブカとクラクションを鳴らし車線変更をさせて追い抜く。よお事故らずに済むもんだ。運転手は超うまい。13時半前、木浦驛前の道路に停車、駅方向を指さしている。もう到着だ。早いもんだ。5千百ウォン支払って車外に出、すぐ前の青信号になっている横断歩道を渡って駅へを走る。駅舎内に入ると列車案内板がまず目に入る。KTXの表示が半分以上。駅構造は、乗車口(といっても自動改札機や駅員が立って入鋏するボックスはない)、そのまま行ける手前の岸式ホーム、階段を昇って橋を渡って行く島式ホーム3面。入口左に駅事務室、事務室の駅舎入口側隣にコンビニ、入口右側に出札口(賣票所、매표소・メピョソ)、その右に觀光案内所。コンビニにの向かいに位置する所に軽食堂。軽食堂左の廊下奥に手洗いがある。賣票所前のホールにはベンチが並んでいる。昼食が摂りたいので外に出た。構内に軽食堂はあるが、駅前にも食べるところがあるはずだ。見つけた!駅舎からみて右側に「영창식당・ヨンチャンシッタン(食堂)」があった!入り口脇にはメニューが貼られている。「갈비탕・カルビタン」があることを確認して店内に「안녕하세요?・アンニョンハセヨ」と言って入る。夫婦が営む家庭的な店のようだ。日本語は不可。結構客が入っているように見えるがお昼時のピークは過ぎているので満席ではない。テーブルは半分空いている。二人客のスーツ姿男性、学生風の人1名等がいた。着席後、韓国に来た時必ず注文するカルビタンを注文。長く待たされることなくすぐ運ばれてきた。四角い金属製の盆に乗せられたままだ。周りには
左から、木浦驛、儒逹山、逹聖寺へ行った後に見つけた李舜臣像
白菜キムチ、カクトゥギ、コンナムル、メンマのようなもの、煮干が添えられてある。ご飯を半分くらい食したら、これは韓国では当たり前、ご飯をスープの中に匙を使って入れ、カルビクッパにする。ふと、店内のメニューを見ると「낙지비빔밥・ナッチビビムバプ(낙지・ナッチ=タコ)」があるのに気づく、木浦に来たらそれを食す予定にしていたのだが、失敗した。が、夕食で食う手がある。そうしよう。後から来た客がそれを注文していた。食べ終えて勘定7千ウォン。尚ナッチビビムバプは1万ウォンと高い。店を出る。朝は上着を着て丁度良いくらいだったが今はポカポカして暖かいというか暑い。10月下旬とは思えない。今度は儒逹山(유달산・ユダルサン)方面へ向かうこととした。

 駅向かいの道路を渡り、國民銀行(국민은행・クンミンウネン)角を曲がる。裏通りの商店街を歩くともう坂道が始まる。しかも急である。20度以上はあるだろうか?日本だったらコンクリートで丸い溝だらけ、もしくは横溝があるのだが、アスファルトで溝はない。駐車車両も多い。車の走行は大変だと考える。この道は露積峰길(노적봉길・ノジョクポンギル)と称される。暫く昇り続けると右側に赤い門、虎だか龍が描かれている。塀の内側は寺院のようだ。古い型の薄茶色のスレート瓦に葺き替えられているが、日本式の寺院の建て方だ。日帝時代に日本人が日本人のために建てた寺院と思われる。日本に関わりのある神社・寺院は日本敗戦直後解体されたというから、残されているのは珍しい。日本人引き上げ後、韓国の寺院になったようだ。帰国後、コネストによれば名称はチョングァンジョンヘ院であることが判明。屋根の葺き替えは日本敗戦後~1960年前後とみられスレートも朽ちかけている(下のグーグル航空写真)。そこを過ぎ、左への曲がり角、十字路でも丁字路でもない。そして80mほど歩くと今度は十字路。右に曲がり儒逹山へと向かう。今度は住宅地内の狭い曲がり角が2か所ほどある階段道。住宅街の私道みたい
左から、逹聖寺石碑、梵鐘閣、石段を昇った正面にある建物、極樂寶殿、逹聖寺付近の道から見る木浦の街
だが、住宅と住宅の間の道だから通ることはできると思うので、ためらわず通行した。車道に出て真正面に駐車場、その向こうに断崖絶壁の儒逹山{一等岩(일등암・イルドゥンガム)と二等岩(이등암・イドゥンガム)}。だが登山口(公園入口)は見当たらない。車道を右へと行く。すると逹聖寺(달성사・タルソンサ)の石碑。表側にハングルが彫られ、裏側は漢字が彫られている。入って急な石段を登る。あまりにも暑いのでとうとうジャケットは脱いでしまった。振り向くと木浦の街で眺めが良い。左側には梵鐘閣。更に段を上がって極樂寶殿(大雄殿)前。合掌して敷地内へ。本尊前で再度合掌。珍島へ無事行き来できたこと。特に帰りの島内バス、本数が少ないため1時間程待って、無事乗れたことが大きい。また、儒逹山に

<より大きな地図で チョングァンジョンヘ院 を表示>
チョングァンジョンヘ院付近航空写真
も来れたこと。それらのことの感謝。石段を降り、再び車道に出て戻る。左カーブを過ぎると、何と撮影目的だった李舜臣(이순신・イースンシン)将軍(1545~1598、豊臣秀吉が指揮する日本軍を破った尊敬されている人物)の像があるではないか!日本の方向に向けられ、にらみつけているよう。公園内に入らずに撮ることができた。これで、ソウル、釜山、木浦と3体ある李舜臣将軍像、全て見たことになる。今日の午前中珍島へ行ったこと、同将軍像撮影の目的達成したことだし、先々日釜山の金井山(
軍峰)に登ったことだし、これから歩いてシャングリアビーチホテルへ戻るため時間が必要だから、儒逹山の頂上へ行くことはしない。さっき来た階段道、日本式のチョングァンジョンヘ院前の急坂の道を降り、海沿いの水産物市場へと向かう。途中他サイトに掲載されている儒逹山登山口と彫られた石碑を目にするがそばに車が止まっており人が乗り降りしているので撮影はよした。そのまま商店街の道を通り続ける、もちろん車の通行に注意しながらだ。駐車車両は多いが人通りが少ないさびれているような商店街を通り過ぎ、海沿いの道に出る。魚屋が並んでいる。丁字路を曲がったアーケードのある道も魚屋ばかりだ。木浦名物・乾燥させた홍어(ホゴ=エイ)や蛸も並べられている。が、活気は今一。釜山のチャガルチのような威勢はない。再び海沿いの道に戻ると食堂があって、チャミスルを飲みながら何かを食べている数人の客がいる。ナッチビビムバプ等が書かれたメニューが外に貼られている。が、さっき昼食としてカルビタンを食べたばかり。時刻は14時半頃。腹は減っていないから寄る気はしない。また、エイは匂いがきついため食う気はしないし、在日韓国人の話によれば韓国人もあまり好まないそうだ。大きな十字路にさしかかる。理髪店前の横断歩道を渡ることにするが、赤信号が長い。やっと青になり渡り始めたが、センターライン向こうの車は横断歩道を通過する。恐ろしい。充分注意を払う必要がある。無事渡り終え東へと向かう。人や車の量は少なくなる。辺りは倉庫や工場だか工事関連の建物ぐらいしかない。立岩橋(입암교・イバムギョ)と思われる橋を渡るが橋の名前は彫られていない。十字路を過ぎ、左には丘、空車(빈차・ピンチャ)のタクシーがあり、運転手の視線はこちらに向けられていたが、歩き続ける予定だったので、手は上げず、タクシーは走り去っていった。また別の丁字路に着く。十字路かと思ったが先は何かの工事が行われて通行止めのようだ。白い幕が張られている。通ってきた道の向こう岸には踏切標識が立っている。丘は公園になっているのでどこからか廃線になった路線の踏切標識が運ばれたのだろう。十字路先は工事中で先へは行けず丁字路になっている所を予定通り右に曲がる。教会が2軒並んでいるはずだ。見える。2軒。そちらに向かう。ところが「교회」の表示や十字架はない。教会ではないようだ。変だ。この辺を通る人は自転車に乗ったお父さんと小学生の息子、中年女性数名位。また、道路左側は海のようで船が停泊している。鉄骨らしきものが当たる音がしている。このため、池だか川だかがある公園があったのでベンチに腰掛け、スマホを取出しGPS装置があるグーグルマップで位置を確かめる。今いる公園は三鶴島公園(삼학도공원・サマクトゴンウォン)、踏切標識がある十字路だか丁字路は[地図①]の位置にあるところではなく、[地図②]であり、左に曲がらなければならなかったのだ。[地図①]と思って右に曲がってしまった。十字路ではなくもともと丁字路。左側は海であるわけだ。そして踏切の標識は現役、木浦驛から木浦港に来ている引込線の踏切だった。引込線は工事中の白い幕が張られた向こうへと延びているのだった。そして海沿いを走り木浦税関へと続いている。船から降ろされた荷物を貨物列車に積み、木浦驛方面へと運ぶか、その反対に船に積むための荷物を運ぶための引込線だ。ユーチューブで実際にその路線を貨物列車が走行している光景を見ることができる。しかし暫く走行していないらしくレールの一部に土がかぶさっている。道に関しては解決だ。早く帰りたいという心理が働いてしまったのだ。今のことは休憩としよう。解決したということで踏切を渡りさっき左折すべきだった道を進む。壊れかけた歩道、道路に置かれた古いボード前などを過ぎ、広い道になる。左方向には頂上付近が岩で断崖絶壁の山、儒逹山とは別の山のようだ。下校途中の中学生、飲食店はなく、町工場だらけだ。そして目印だった立岩橋を渡る。今度は本当の立岩橋だ。右への曲がり角があり片側1車線の道であるがまた道に迷うといけないからそちらへは行かない。帰国後知ったこと
によればその道の方が近道だったようだ。本当の十字路に出て右に曲がる。今度はちゃんと教会がある。十字架、「교회」という表示。歩道には自転車専用レーンがあり、緑に塗装されている。GSガソリンスタンドの角を右へ曲がり進む。右側は丘、선응사(ソヌンサ)という寺院がある。坂を登って行くようだ。左に派出所。地図通り。今のところは順調だ。[地図③]の地点で道を渡る。更に歩いて、左に曲がる。この先を右に行けば円形の道路、そしてシャングリアビーチホテルだ。ところがまた別のドラマが待っていた。

 右に曲がり、円形の道路らしき道は通り過ぎたのだが、ホテル付近の光景に辿りつけない。飲食店(外のメニューに日本語の併記あり)や一般商店が立ち並ぶ公園のような道路を随分歩いて来たものだ。左に出て平行する広い道に出て同じ方向に進む。が、ホテル付近ではない。中層のビルが立ち並んでいる所だ。ホテル南の海というか榮山湖(영산호・ヨンサンホ)がある南へ行けばよい、湖がある方はビルはないのが目印だとふと思った。まず南はどちらの方向であるかを知ることだ。時刻は16時頃、太陽は西に傾いているから、太陽のある方の西を見て左方向へ進めば良いのだ。今までは東へと歩いていたようなので進行方向を右に変える。通る人は若い人が多い。木浦の新市街らしい。遂に来た。ホテル裏の円形の道路がある所に。駐車場を通過し、その道に入り、コンビニGS25を見つけたので、一杯やるための缶ビールとチャミスル、つまみとしての栗を買う。やったー、ホテル前の道に出れた。ホテルへは左に行ってすぐ。16時半頃の到着。木浦市の西端近くから東端近くまで歩いた。三鶴島公園付近や新市街での道の間違いがなければあと1時間早く到着できたことであろう。しかし、それだけたくさん歩きHDLコレステロールを増やすことができたかもしれない。室内でGS25で買ったそれれらで一杯、疲れを癒した。
 18時半ごろ、夕食のため外に出る。前の道を渡り、東へと進む。飲食店が立ち並んでおりナッチビビムバプがある飲食店があるだろう。そう思ったら、すぐあった。本家(본가・ポンガ)という店、外にはメニューが貼られており「낙지비빔밥」(ナッチビビムバプ)もある。早速扉を開け店内に入る。ここも昨日寄ったホテル裏の店と同様に靴を脱いであがる。全部座敷席である。「안녕하세요?・アンニョンハセヨ」。店内は一人も客はいない。ママさんは一人で切り盛りしており、「やっと客が来てくれた」とでも思っているのであろう、快く迎えてくれた。「낙지비빔밥(ナッチビビムバプ)」と注文。5~10分位で運ばれてきた。副菜として、白菜キムチ、コンナムル、玉葱、わかめ、煮干、味噌汁がついている。テレビはニュースで、日本に関することではない。BGM感覚だ。勘定は1万ウォン、駅前のヨンチャン食堂と同じ値段だ。「안녕히계세요.(アンニョギセヨ)」と店を出た。今日、2回も道に迷い時間が無駄になった分、飲食店はすぐ見つかってよかった。ホテルに戻ったあと、チャミスルは2本買っておいたので、残りのもう1本、珍島や儒逹山、3回道を間違えたことを今日の良い思い出として飲んだ。KBSテレビは言葉のゲームのよう、ハングルを使ったしりとりみたいなものだった。
 帰国後知ったことによれば、木浦はかつては木浦驛より西辺りの旧市街を除いて平地は海だった。丘、山は離れ島、三鶴島も完全な離れ島だった。シャングリアビーチホテルのある新市街一帯も海、その一部が榮山湖として榮山江(영산강・ヨンサンガン)の下流のような形で残っている。つまり木浦市の多くが埋立地。また、かつては日帝時代、日本と中国との貿易の中継地として栄え、日本人が多く居住していたという。確認できた建物は寺院・チョングァンジョンヘ院、商店街でも気づかずに旧日本家屋を見たかもしれない。それまで農漁村だった木浦は開港の1897年から急速に発展、埋め立てもその頃始まった。しかし1970年頃寂れはじめ旧市街の裏通り商店街や水産物市場は活気がいまいちの所が多いしソウルや釜山にあるような30階を超える高層団地もない。現在日本人に「木浦」と言ってもピンと来ず、もしそれほど寂れていなければ半島南部の大都市、東の釜山、西の木浦として栄えていたことだし、木浦も広域市になり、現在日本人にはあまり知られていない街にはならなかったことだろう。また金大中(김대중・キムデジュン)元大統領(故人)が居住したこともある。出身地は近くの離れ島。しかし寂れてしまった分、日本式住居が取り壊されず多く残っているのだと思う。
※日帝時代の木浦・参考資料(表示されるまで時間がかかることがあります
日本統治時代における朝鮮半島・木浦府周辺の空間的変容-地籍資料の分析を中心に-(山元貴継)
(木浦驛から儒達山へ向かう坂道の途中で見つけた日本式の寺院は日帝時代からあり日本人が信仰するためにあったことがわかる。但し当時の寺院名は記載されていない。
韓国における植民地都市景観の無国籍性-郡山・木浦市を中心に-(須山 聡・鄭 美愛)
(木浦旧市街に日本式の住居が多いことがわかる。日帝時代の建造物で寺社の多くは破壊されたがその他は保存か解体か争われている一方、民家の和室をオンドル部屋に改造する等、韓国人に適した造りに改築されている。)

 韓国の自治体で郡(군・クン)の下に存在する町に相当する邑(읍・ウプ)や村に相当する面(면・ミョン)は自治権は持たない代わりに、珍島郡庁があるように郡は独立自治体として生きている(ウィキペディアによる)。日本も大正まで郡は独立した自治体だったが、同12~15年に自治体としての郡や郡長、郡役所は廃止され、それ以降都道府県と町村の間にある区域名にすぎなくなった(郡の変遷による)。
 
歩行距離:13km 就寝前の血圧:H97 L79 正常範囲だ。 TOP 10/20 釜山→木浦 10/22 木浦→ソウル