要害城跡

所在  山梨県甲府市上積翠寺町

交通  JR中央本線甲府駅よりバス積翠寺下車

歴史  永正十六年(1519)、武田信虎は石和館より本拠地を躑躅が崎館に移したが、甲斐国内は

     まだまだ平穏ではなく、翌十七年に躑躅が崎館の詰城として築かれたのがこの要害城である。

     築城翌年の大永元年(1521)、甲斐は駿河今川氏の属将福島正成の侵攻を受け、信虎夫人は

     この要害城に避難し、麓の積翠寺で嫡男晴信(のちの信玄)を出産したという。

     信玄統治時、甲斐は他国からの脅威にさらされることがなかったのでこの要害城もさほど重要

     視されることはなかったが、勝頼の代になり長篠の役で大敗を喫すると情勢が一転、織田・徳川

     軍の侵攻に備えこの要害城も急遽改修の指示が出されたという。

     のち勝頼は躑躅が崎館を捨てて新府城に移り、その後滅亡したため、この要害城は一度の実践

     経験がないまま甲府城完成とともに廃城になったとされる。

       要害城遠望

       要害城入口に建つ石碑・案内板

       要害城主郭部

一言  要害城は躑躅が崎館跡より北東約3kmに位置し、有事に篭城する目的で構築された山城

     である。 

     信玄出産時に産湯に使った井戸が残る積翠寺の裏山が要害城で、城跡入口よりつつら折り

     の道を登りことになる。途中、小さな曲輪が連続して形成され、石積み・土塁・門跡・堀切・竪

     堀等の遺構が出現する。主郭部は広大な平地になっており、周囲に土塁跡が確認出来る。

     要害城はあくまでも『躑躅が崎城の詰城』ということで正直、あまり期待していなかったのだが、

     なかなかどうして。その遺構は非常よく残り、堅害ぶりを今に伝える。  

     躑躅が崎館(武田神社)に訪れる人は多いけれど、この要害城を訪れる人はあまりいない。

     歴史好きならばやはり館と詰城セットということで是非とも訪れてもらいたい城跡である。

       石積みが残る門跡

       不動曲輪跡

       堀切跡

       麓の積翠寺(信玄出生地とされる)

 

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