上野城跡

所在  山梨県中巨摩郡櫛形町上野

交通  

歴史  『甲斐国志』によると、上野城の築城者は小笠原長清の孫上野六郎盛長とされている。

     南北朝時代には、武田十世信武の子信明が大井庄を領し、大井武田氏として栄えたという。

     信明から数えて六代目、大井信達は甲斐守護を相続した武田信虎に反抗、周囲の国人領主栗原・今

     井・穴山氏のみならず、駿河の今川氏とも結託して反信虎活動を展開する。永正十二年(1515)には

     今川氏親の援助を受けて信虎軍と交戦、信虎軍を大敗せしめている。のち、信虎軍は徐々に勢力を回

     復し、同十四年には今川氏と和睦、同十七年には大井氏を降伏させている。

       上野城本丸推定地にある祠

        本丸推定地周辺

一言  上野城は城の周囲に椿が多く咲いていたことから、別名『椿城』ともいう。

     前述の通り、城主だった大井信達は武田信虎に反抗を続け、降伏した訳だが、その降伏のしるしとして娘

     を信虎の正室に差し出すことになるが、大井夫人として晴信・信繁・信廉らを産んだ。

     椿城跡の遺構は殆どなく(というか全く確認できなかった)、本丸跡も推定地とされる。(一説には大井氏

     菩提寺の本重寺が本丸跡とも)

       大井氏菩提寺本重寺

       本重寺内にある石碑

       本重寺裏手に残る大井氏の墓石群

 

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