躑躅が崎館跡
所在 山梨県甲府市古府中町
交通 JR中央本線甲府駅よりバス武田神社下車
歴史 永正十六年(1519)武田信玄の父、信虎はそれまで居館としていた石和館よりこの地に移り、
領国経営の拠点とした。信虎移住当時の甲斐は、武田家の被官化を嫌った甲斐国人大井・今井・
栗原氏らが武田氏に反抗し、更には駿河今川氏・相模北条氏らが甲斐侵攻の機会を狙っており、
決して平穏な状況ではなかったが、信虎は館の周囲に要害城・湯村山城・一条小山砦を築いて
防御を固めるとともに、積極的な対外政策を敢行、甲斐を平定する。
甲斐平定後、信虎は諏訪方面侵攻して勢力拡大に努めるが、長年にわたる出兵により領民は
疲弊することになり、天文十年(1541)、信虎は信玄と一部重臣によるクーデターが勃発、信虎
は駿河に追放されてしまう。
武田氏を継いだ信玄は内政に力を入れて国力増強を図るとともに、信虎と同じく周囲に出兵して
版図を広げ、その版図は甲斐・信濃・駿河全土のほか、美濃・上野・遠江・三河等の一部にも及
んだという。
天正元年(1573)、信濃駒場にて信玄が死ぬと勝頼が跡を継ぐことになる。
勝頼は更なる勢力拡大を目指し、父信玄さえ落とせなかった高天神城を落とすなど武田氏最大
の領地を得ることになるが、天正三年(1575)に起った長篠の戦いにて大敗し、以降、武田氏は
急速に衰えていく。
織田・徳川侵攻の圧力がかかる中、勝頼は躑躅が崎における防御は不可能と考え、韮崎に新府城
を築いて移住するが、勝頼は家臣の新府移住を促すために、信虎以降三代60年に渡って使用した
躑躅が崎及び周囲の町を破壊したとされる。
のち、入領した徳川家康が一時期この館跡を使用したが、南方に甲府城が築城されると躑躅が
崎館は存在価値を失い、歴史の表舞台から消えてしまう。
躑躅が崎館跡(現武田神社)
躑躅が崎館跡石碑
武田神社社殿
一言 躑躅が崎館跡は甲府駅より北約3kmに位置し、現在武田神社(大正八年造営)が建っている。
館の規模は南北約200m・東西約300mで、神社建立により一部遺構が破壊されているが、
それでも全体的に遺構がよく残っており、周囲には当時からのものと思われる水掘のほか天守台・
古井戸、各所に土塁・空堀等が確認できる。現在神社が建つ地点が館時代の中曲輪跡とされ、洋風
建築の藤村記念館の建つ地点が当時の西曲輪跡とされる。
なお、神社は多くの観光客で賑わっているおり、(道路を隔てた神社前のみやげ物屋の店先から流
れる音楽はもちろん『武田節』...)甲府の観光ルートにもなっている。
そのほか武田神社横には宝物殿があり、武田氏関係の古文書や鎧等が公開されている。(入場は有料)
武田神社より西曲輪方面を望む
躑躅が崎館土塁跡
周囲に残る水掘
『甲斐の史跡巡りは躑躅が崎に始まる』ってかんじでしょうか。