武田信義館跡
所在 山梨県韮崎市神山町武田
交通 JR中央本線韮崎駅よりバス鋳物師屋下車J
歴史 平安時代後期、清和天皇の子孫甲斐源氏清光は勢力維持・拡大のため十数人いたとされる子を甲斐
各地に配するが、甲府盆地西北に位置する武田庄には信義を置き、信義は武田太郎と号して領地経営
を行った。
治承四年(1180)、平氏打倒のために挙兵した源頼朝に応じて信濃・駿河各地を転戦、その功により駿河
守護職に任ぜられるなど勢力を伸ばすが、その勢力拡大は源頼朝の危惧を招くことになる。
翌養和元年(1181)、「後白河法皇より頼朝討伐を命ぜられた」との風評が立ち信義は失脚。信義の子
一条忠頼・弟安田義定らも謀殺されるなど、鎌倉幕府開幕の功労者である信義ではあったが、晩年は不遇
であった。
この事件以降信義は一線を退き、復権ならぬまま文治二年(1186)に死去したという。
武田信義館跡
館跡に建つ碑と説明板
館跡の周囲は住宅地・農耕地に
一言 この地には甲斐武田氏始祖武田信義の館があったとされる。
館跡地に祠などが残っているが、周囲は住宅・農耕地に変貌し、明確な遺構は残っていない。
館跡南西約1kmには館の要害とされる白山城跡が、また東南約500mには信義の菩提寺願成寺が建ち、
寺内には信義の墓所がある。
なお、甲斐守護職が信義の子孫が代々世襲し、信玄は信義より数えて十六代目に当たる。
信義の菩提寺願成寺
願成寺に残る信義墓所