高谷城跡

所在  静岡県田方郡土肥町

交通  

歴史  高谷城は鎌倉時代前後よりこの地に勢力を誇っていた土豪・富永氏によって

     築かれたとされるが、築城年代は不明である。

     伊勢新九郎長氏(北条早雲)が伊豆に進出すると富永氏はその軍門に降り、

     以降、北条水軍を整備し西伊豆沿岸の警備を務める一方、重臣として各地を転戦

     して北条氏の関東制圧に戦功を挙げたという。

     天正十八年(1590)いよいよ秀吉による関東侵攻が始まると、当主富永政家は 

     軍の方針に従い高谷城を放棄し韮山城に入城する。

     しかし、援将として入城した韮山城も3ヶ月の篭城ののち開城。7月には小田原城

     も開城・北条氏は滅亡することになり、富永氏は土肥をはじめとした所領の全てを

     失うことになる。

     のち、政家は家康からの仕官の誘いを断り、慶長十二年(1607)に上総国で没した

     という。

       高谷城跡遠望

       高谷城本丸跡

       虎口部?

       石積み跡?

       本丸下腰曲輪跡

一言  高谷城跡は土肥小学校裏山から駿河湾にかけて繋がる台地上に築かれた山城で、

     城跡へは諏訪神社の参道右手横の小道を進むことになる。

     道を進むこと約10分で本曲輪に到達でき、その西側に物見曲輪、南西に二の曲輪・

     出丸を配した縄張りである。(大藪弁天神社の裏山は出丸跡)

     本曲輪周辺には数段の曲輪を配し井戸跡らしきものも確認できたが、夏草に覆われ

     遺構の判別に苦労した。また、物見曲輪より二の曲輪方面に進もうとしたが、ここでも

     草木に阻まれとても行ける状況ではなかった。冬場に訪れるのが吉か。

       井戸跡?

       城跡下に建つ諏訪神社(城跡はこの右手より)

       出丸下に建つ大藪弁天神社

       出丸より先は草木で進めない...

 

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