須沢城跡

所在  山梨県中巨摩郡白根町大嵐

交通  JR中央本線韮崎駅よりバス須沢入口下車

歴史  須沢城の正確な築城年代については不明であるが、『甲斐国志』によると鎌倉時代初期には塩屋

     三郎という者が在城したという。

     下って南北朝時代、足利尊氏の四男基氏は関東管領として鎌倉にあったが、その執事として高師冬

     と上杉憲顕が用いられることとなる。師冬と憲顕はやがて勢力争いを引き起こし、劣勢となった師冬は

     再起を計るべく、鎌倉より武田一族辺見孫六入道を頼って須沢城に入城する。

     これに対し憲顕は子能憲を将に須沢城に派兵した。また、能憲軍に呼応して足利直義党の諏訪下社

     祝部軍も須沢に到着、両軍は須沢城に攻撃を加える。

     観応ニ年(1351)正月、両軍の総攻撃を受けて須沢城は落城。師冬は自刃したという。

      須沢城跡遠望

      須沢城跡の説明板

一言  須沢城跡は御勅使川の北、標高650mの地点に残り、比高は100mほどであろうか。

     城跡一帯は果樹園となっており、また、遊歩道らしい道も作られている。しかし訪れる人がいないためか、

     荒れ放題となっている。遺構も一部土塁が残るばかりで、その他、明確な遺構は確認出来なかった。

     なお、林道ではあるが城跡までの道は整備されているので、車で城跡まで行く事が出来る。

        城跡に残る一部土塁

       土塁跡に残る宝篋印塔

       周囲は果樹園

 

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