獅子吼城跡
所在 山梨県北巨摩郡須玉町江草
交通 JR中央本線韮崎駅よりバス平下車
歴史 別名「江草城」と呼ばれる獅子吼城の歴史は古く、城跡の東南に位置する見性寺の寺記に「鎌倉時代、
元応ニ年(1320)五月四日夜、獅子頭にて信田小左衛門実正・小太郎実高討死」等の記述があり、
城はそれ以前に機能していたと考えられる。
のち、武田信満の三男信康が江草氏を称し城を治めるが25歳にて没してしまう。以降、今井氏が
獅子吼城を治め数代続くが、武田信虎が甲斐守護になった頃には栗原氏・大井氏らと結託して武田
氏に反抗する。天文元年(1532)九月、信虎は3千の兵を率いて今井氏が篭る城を攻め、獅子吼城
落城。今井氏はこの戦い以後、武田家に臣従することになる。
天正十年(1582)武田家滅亡、直後に起こった本能寺の変により甲斐が空白地となると、徳川・北条
氏の甲斐争奪戦が繰り広げられる。世にいう『天正壬午の戦い』である。新府城に陣を構え徳川氏に対し、
北条氏は若神子城に陣を構えてこの獅子吼城にも兵を配するが、九月初旬服部半蔵率いる伊賀組
及び武田家遺臣の津金・小尾衆などに攻められ獅子吼城は落城。この戦い以降、北条氏は徐々に劣勢
に陥り、十月には徳川氏と和睦して甲斐より撤退したという。
獅子吼城遠望
獅子吼城
獅子吼城主郭部
一言 城跡は標高793m、比高130mの山中に残る。主郭部の周囲に帯郭を配し、さらにその下には数段の
曲輪が残る。その他、土塁・堀切等の遺構が確認できるが、この獅子吼城跡で特筆すべきは至るところに
確認できる石積み(石垣)であろう。甲斐の城跡でこれほどの石積みを多用し、かつが現存しているのは非常
に珍しいと思われる。
なお、この獅子吼城跡に何度か訪れたが、ある時は野猿の群れに遭遇し、危うく襲われかけて(滅茶苦茶威嚇してくる)
無念撤退したことがある。
遺構は良い状態で残っているのだが、何とも苦い思い出が残る。
主郭部に建つ石祠
獅子吼城に点在する石積み