新府城跡
所在 山梨県韮崎市中田町中条上野字城山
交通 JR中央本線新府駅より徒歩12分
歴史 天正三年(1575)五月、三河長篠において武田勝頼率いる武田軍は織田・徳川連合軍に大敗を喫し、
以降、武田家の凋落が始まる。
一方、戦いに勝利した織田信長は、長年抵抗を続けた本願寺と天正八年に講和を結び、いよいよ武田家
討伐に取りかかる事になる。勝頼は織田氏の同盟軍の徳川のほか、越後上杉の後継問題に際して北条氏
をも敵に廻してしまい、武田家を取り巻く圧力は日に増して強まっていく。
この様な状況下のもと、本国甲斐における備えとして築かれたのがこの新府城である。
天正九年二月、真田安房守昌幸を普請奉行に昼夜兼行で行われた新城建設は、その年の暮れに一応の
完成をみることとなり、十二月二十五日、勝頼はそれまでの躑躅が崎館を捨て、新府城へ本拠を移す。
翌十年(1582)二月、木曽方面を固めていた親族衆木曽義昌が信長に降ったのを機に信長軍の甲斐侵攻
戦が始まり、駿河江尻城の親族衆穴山梅雪は徳川氏に降伏。三月ニ日には信濃高遠城が落城して武田軍
は孤立無援となる。
小山田信茂の勧めもあり、郡内岩殿城へ逃れる事を決意した勝頼は三月三日、自らこの新府城に火をかけ
城を廃する。在城、わずか六十日。
岩殿城を目指し落ち延びる勝頼一行だが、最後には頼みにしていた小山田氏にも裏切られ進退に窮する。
その間に滝川一益率いる織田軍の追撃を受け、天目山山麓田野にて滅亡する。
のち新府城は天正壬午の戦いに際し、徳川軍の本拠として使用されたという。
新府城跡石碑
本丸跡碑
新府城本丸跡
一言 新府城は七里岩の台地上に造られた丘城で、釜無川を天然の堀に、そして川によって形成された断崖を壁に
した要害である。
城跡には東西約90m・南北約120mの本丸跡を中心に二の丸・東西三の丸・丸馬出し・三日月堀跡などが残存し、
また至るところに土塁が走っている。土塁・曲輪を複雑に組み合わせて本丸への到達を困難にさせる縄張は、この
城が戦闘目的に築かれた事を物語り、かつ非常に素晴らしい。(丹念に遺構を見ると約2時間は必要)
なお、新府城の周囲には能見城・日の城をはじめとした支城・砦を配し、それらを含めた新府城城域は南北約2km
にわたる広大なものだったという。
新府城二の丸跡
馬出し跡付近
三日月堀跡と土塁