於曽氏屋敷跡
所在 山梨県塩山市下於曽元旗板
交通 JR中央本線塩山駅より徒歩10分
歴史 応保ニ年(1162)、この地の開拓者であった旧豪族三枝氏は国司と熊野社の争いに関わり、その
勢力は減退する。
三枝氏に替わりこの地を支配したのが甲斐源氏の加賀美光径・光俊兄弟とされ、於曽氏を称しこの
地に屋敷を築いた。
鎌倉時代初期より続いた於曽氏は室町時代に繁栄を極め、戦国時代になると同族の板垣氏が継承し
於曽殿として活躍した。
於曽氏は武田家滅亡後の徳川氏甲斐統治時に名を廣瀬(氏)に改め、今に続いている。
なお、この屋敷跡周囲には金山を管理する金山衆が多く居を構えていたことから、この屋敷跡を金山
関係者邸宅とする説もある。
於曽氏屋敷正面
今も高さを誇る土塁
一言 於曽屋敷はJR塩山駅南200mほどの地点に位置し、昭和49年にこの土地の所有者廣瀬氏より屋敷
の半分が塩山市に寄贈され、於曽公園として公開されている。
周囲を土塁で固めた典型的な中世豪族方形屋敷跡で、土塁等は今でも高く現存し、館の西北には始祖
於曽光径のものと伝えられる墓石があるという。(非公開)
なお、屋敷跡の南東には織田氏甲斐侵攻の際に主人の身代わりとなって切腹した家臣板垣権兵衛の
切腹石がある。
廣瀬氏により寄贈され造られた於曽屋敷公園
土塁頂部より公園内部を望む
屋敷跡南東に残る切腹石