小田野城跡

所在  山梨県東山梨郡牧丘町小田野山

交通  JR中央本線塩山駅よりバス城下下車

歴史  甲斐源氏の祖新羅三郎義光の孫(一説には孫曾とも)のあたる義定は、平安時代末期安田氏

     の祖としてこの小田野城を築いたとされる。義定は治承四年(1180)、平氏追討のため挙兵し、

     富士川の合戦などで多くの功績を挙げるものの、勢力の増大を恐れる源頼朝によって攻められ

     義定は近くの放光寺にて自刃、安田氏は滅亡する。時に建久五年(1194)の事である。

     下って室町時代中期、守護武田氏の勢力が弱まると守護代の跡部氏が台頭する。跡部明海は

     この小田野城を拠点に専横を極め、しばしば守護武田氏に抗する。長禄元年(1457)から翌年

     にかけて起った武田氏と跡部氏の戦いでは、武田一門岩崎氏のほとんどが戦死するなど、守護家

     である武田氏は窮地に陥る。しかし寛正五年(1464)、跡部明海が没すると形勢が逆転。武田氏

     は反撃じ、翌六年、守護武田信昌は跡部明海の子景家をこの小田野城で討ち、跡部氏による甲斐

     乗っ取りの窮地を脱したという。

       小田野城遠望

       小田野城本丸跡

       自然石が残る二の丸跡

一言  小田野城は安田義定が開基したとされる普門寺の裏手、標高883mの小田野山に残る山城で

     ある。

     山の尾根に沿って小規模な郭を数多く配した縄張りで、遺構としては三の丸(蔵王権現の社地で

     祠が建っている)・自然石を巧みに利用した二の丸・小田野山頂部の本丸・堀切等が確認できる。

     麓の普門寺より登ること約1時間で本丸跡に到達することが出来るが、普門寺墓地から続く道は

     夏は雑草によって遮られているので他の道を選ぶのが賢明か。

       三の丸跡に建つ祠

       城跡前に建つ安田義定開基の普門寺

       安田義定廟所

       義定が自刃した放光寺

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