中津森館跡

所在  山梨県都留市金井

交通  富士急行線都留市駅よりバス金井下車

歴史  鎌倉時代前後、武蔵小山田庄(町田市小山田)を領していた小山田氏は甲斐郡内に領地を与えられ、中津森

     館を築き領地経営を行った。

     小山田氏の発祥は坂東八平氏の村岡忠頼の6代の子孫、秩父重弘の子有重とし、有重の子行重の時に甲斐

     に移住したのが始まりとされ、その支配は約400年にわたった。

     室町時代中期には甲斐守護武田氏に対抗、しばし戦火を交えるが永正七年(1510)には武田氏との婚姻同盟

     が成立し、以降、武田氏の同盟軍として各地を転戦した。

     なお、館は亨禄3年(1530)に火災に遭い、小山田氏は新たに谷村に館を建設して引き続き郡内経営を行うが、

     約半世紀後の天正十年(1582)、武田氏滅亡に伴ない小山田氏も処罰され、小山田氏による郡内経営は終焉

     を迎えることになる。

       中津森館一帯

       館跡は更地に  

       館跡南側の丘陵地は物見台跡か

 

一言  中津森館は金井地区に建つ用津院と桂林寺との中間地点にあったとされるが、現在は農地・更地になり遺構は

     確認出来ない。(説明板すらない。)

     ただ周囲を走る用水路と、前面に位置する丘陵地(物見台に活用していたのか)が館跡の痕跡を示すばかりで

     ある。

     なお、桂林寺には中世小山田氏最後の領主で、織田信長により甲斐善光寺で誅された兵衛尉信茂のほか、小山

     田氏歴代の墓が残る。

    (信茂は最後の最後で勝頼を裏切ったことから、その不義を指摘する意見もあるが、甲斐武田氏との関係・独立した

     領国経営を行っていた点・勝頼を匿うと織田軍に領地を蹂躙され、領民に苦難を与えてしまう点を考慮すると、致し

     方の無い選択だったのではないか。ただ、時期が悪かったのは確かであるが...。)

       用水路が堀の跡とされる

       小山田氏の菩提寺桂林寺

 

      前のページに戻る   メインページに戻る