河津城跡

所在  静岡県賀茂郡河津町笹原城山

交通  伊豆急行線河津駅より徒歩30分

歴史  『寛政重修諸家譜』によると永享の乱にて自害した関東管領足利持氏の七男・

     広氏は乳母ととも伊豆国に逃れて土豪蔭山氏の許に身を寄せ、のち成長した

     広氏は婿となって蔭山氏を継いだという。

     延徳3年(1491)、伊勢新九郎長氏(北条早雲)が伊豆に侵入し足利茶々丸を

     滅ぼし、更には河津庄に兵をを進めた。蔭山氏は笹原大日山に陣を張って長氏

     軍を迎撃するものの、兵火により居城河津城は炎上。蔭山氏は軍門に降り、北

     条氏の家臣団に組み込まれることになる。

     以降、蔭山氏は後北条氏の重臣として活躍するが、天正十八年(1590)豊臣

     秀吉の小田原征伐の際、豊臣・徳川両水軍の攻撃を前に河津城は戦わずして

     開城、時の城主蔭山氏広は妻子とともに伊豆加殿村(修善寺方面)の妙国寺に

     逃れたとされる。

     のち、氏広の養女お万は後に徳川家康の側室となって紀州頼宣・水戸頼房を

     産み、その功により蔭山氏の子孫は下田奉行等の要職を歴任したという。

     なお、この河津城の築城者は平安時代末期、この地一帯を治めていた河津祐泰

     とする説があるが、真偽のほどは不明である。

       河津城跡遠望

       主曲輪部には展望台が

       展望台より主曲輪・二の曲輪方面を望む

       城跡より海を望む

一言  河津城跡は河津駅の北、約300mほどの地に位置し、比高は50mほどである。

     城跡へはハイキングロードが造られており、麓から約20分ほどで頂部である

     本丸跡に到達出来る。

     縄張りとしては現在展望台が建つ本丸跡の一段下に二の曲輪を配した連郭式

     城郭で、曲輪はさほど大きくなく、各々半径10m程であろうか。

     なお、伊勢新九郎長氏軍の兵火によって河津城が落城した際、城兵は白米を

     もって消火に当たったとされ、焼き米が出土するという。(尤も、焼き米の出土は

     大日如来の信仰によるものとする説もあるが。)

       二の曲輪跡にある説明板

       二の曲輪跡

       蔭山氏の居館跡は図書館付近か

 

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