勝山城跡

所在  山梨県東八代郡中道町上曽根字勝山

交通  JR中央本線甲府駅よりバス中村入口下車

歴史  室町時代中期、武田一族信恵父子は油川氏を継ぎ勝山城を居城としていたが、幼主信虎が武田家の家督を

     継ぐと信虎に反旗を翻す。信恵父子は弟縄美・郡内小山田氏らを誘って抵抗を続け、信虎は一時窮地に陥るが、

     永正五年(1508)の戦いにて信恵父子は敗死する。

     永正十三年(1516)、甲斐西部に勢力を誇っていた大井信達・信業父子は信虎に抵抗、大井氏を援助する駿河

     今川軍がこの勝山城を占拠し、信虎軍を悩ました。翌十四年、和睦が成立し今川軍はこの勝山城より退去するが、

     大永元年(1521)今川軍は再びこの勝山城を占拠している。

     下って武田家滅亡後の天正壬午の戦い(1582年)では徳川家康家臣服部半蔵率いる軍がこの勝山城に入城し、

     北条軍に対したという。

       勝山城跡遠望

       勝山城跡石碑

一言  勝山城跡は甲斐と駿河を結ぶ『中道往還』の押えを目的に築城されたとされる。

     城跡は独立丘城で比高は殆どなく、簡単に主郭部跡に到達できる。

     遺構としては城跡全体が果樹園と化しているために、旧状を止めていない部分が多々あり、曲輪・土塁跡等の

     判別に苦労した。

       果樹園と化した勝山城跡主郭部

       勝山城跡北郭部

       城跡に残る土塁跡

     この城跡に行く前に、情報収集を目的に近くの『山梨県立考古博物館』を訪れ勝山城について訊ねたが、

     「勝山城???」状態。認知・知名度が低いのか、『考古』から外れているからか。でも、中道町発行のパンフ

     に載っているのに...。

 

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