狩野城跡

所在  静岡県田方郡天城湯ヶ島町青羽

交通  伊豆箱根鉄道修善寺駅よりバス柿木橋下車

歴史  狩野城は藤原南家武智麻呂を遠祖とする狩野氏歴代の居城である。

     狩野氏はこの中伊豆の地を中心に周囲に勢力はを張り、宇佐美・河

     津・伊東・田代などの土豪は全てこの狩野氏の同族とされる。

     狩野氏歴代の中でも平安時代末期より鎌倉時代にかけて現れた茂

     光・親光父子は特に有名で、茂光は鎮西八郎為朝討伐を果たし、源

     頼朝旗揚げに参陣するが石橋山合戦にて討死する。また親光は頼朝

     に従い関東を転戦するが、親光留守中に狩野城は平家方の大軍に

     攻められ、老幼婦女子に至るまでことごとく討たれ、または川に身を投

     じ果てたという。

     狩野家の不幸はこれに止まらず、親光は文治五年(1189)の奥州藤

     原氏征伐時に陸奥国伊達にて討死してしまう。これらは『源平盛衰記』

     の中心的な記述として残る。

     狩野氏はその後も在地土豪としてこの狩野城を一帯を治めていたとさ

     れるが、延徳三年(1491)、伊豆に進出してきた伊勢新九郎(北条早

     雲)に抵抗。早雲は伊豆を僅か1ヶ月で手に入れたとされるが、狩野氏

     の抵抗は約5年に渡ったとの記録もある。

     早雲に攻め込まれたのち状況は好転せず、最後の城主狩野道一は奮

     戦空しく城を落ち修善寺中島にて自害したとされる。

     これ以降、狩野城の名は史上から消えることとなる。

       狩野城跡遠望

       本郭(中郭跡と看板にあり)

        本郭跡に建つ説明板と木碑

       狩野城堀切跡

一言  狩野城跡は伊豆半島中央を流れる狩野川と柿木川の合流点の山上に

     残る。

     標高200m弱の丘陵城で、平安・鎌倉・室町時代300年にわたって狩野

     氏の本城として使用された城らしく、その遺構は重層的でかつ保存状態も

     良い。

     特に本郭(現地掲示板では中郭とある)と各郭を分断する堀切、東郭付近

     の虎口、本郭に残る土塁跡は秀逸である。

     城跡へは国道の道より入ったが、最初の坂道がやや難儀と思われるくらい

     で、その(縄張がよく解かる)遺構を見れば疲れがとれること間違いなし。(かな)

        ただ時期により薮蚊に襲われるやも。

       東郭跡

       土塁跡

 

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