金丸氏館跡
所在 山梨県中巨摩郡八田村徳永
交通 JR中央本線塩崎駅より徒歩25分
歴史 金丸氏は甲斐国主武田信重の子光重を祖とし、代々甲府盆地南西に位置するこの地を治めていた。
室町時代中期より戦国時代初期にかけて甲斐国内は混乱を極めるが、金丸氏は勢力を維持し続け
信虎・信玄時代には武田家に従軍、各地を転戦して戦果を挙げたとされる。
のち武田家が勝頼の代となり、長篠の戦いにて大敗を喫すると武田家は凋落の一途を辿ることとなる。
天正十年(1582)三月、いよいよもって織田軍による甲斐侵攻が始まることとなるが、窮地に陥った武田
氏を旧臣が続々と裏切るなか、金丸氏一族で当時土屋氏を継いでいた昌忠は郡内に逃亡する勝頼一行
に馳せ参じて織田軍相手に奮戦、勝頼に自刃の機会を与え、のち自ら命を絶ったという。
武田家滅亡後、金丸氏を継いだ忠直は徳川氏の臣となり、上総久留里藩の大名として取りたてられる。
のち子孫は常陸土浦藩主として明治維新を迎えた。
金丸氏館跡に建つ長盛院山門
長盛院本堂
一言 金丸氏跡地には現在、金丸伊賀守光信が建立したとされる長盛院が残っている。
長盛院は比高約10m程の高台に位置し、金丸氏が館を営むには適地だったと思われる。
ただ、周囲は住宅地・農地へと転用され、主だった遺構は確認出来ない。
長盛院北東には最後まで勝頼に従った土屋昌忠の墓所が残されているが、当時の金丸氏館はその地をも
含めた広大なものであったという。
周辺は田畑・住宅地となり遺構は確認できなかった
長盛院近くに残る勝頼に殉じた土屋昌忠の墓所