二俣城跡

所在  静岡県天竜市二俣町

交通  天竜浜名湖鉄道二俣本町駅より徒歩15分

歴史  二俣城の起源は明確ではないが、『遠江国風土記伝』によれば今川氏親の家臣

     二俣近江守昌長が文亀年間に築いたという。

     永正十一年(1514)、二俣氏は米倉城に移り、代わって遠州堤城主松井信薫が

     入城する。信薫病没後、弟の五郎八郎宗信が二俣城を継ぐが、桶狭間の合戦にて

     宗信は討死する。

     桶狭間合戦後、今川氏の勢力が減退すると二俣城は徳川氏の攻略によりその支

     配下に組みこまれることとなり、家康は鵜殿氏を二俣城主に任じる。

     元亀三年(1572)、遠江に侵攻してきた武田信玄は、子の勝頼を大将に二俣城を

     囲む。武田軍による猛攻撃にも城主以下、城兵はよくこれを防いでいたが、井楼に

     より天竜川からくみ上げていた水の手を武田軍に断たれると二俣城は落城してしまう。

     以後、武田方の武将、依田氏が二俣城を治めた。

     信玄は二俣城修築を命じ徳川氏に備えるが、信玄死後、長篠の戦いにて勝頼が織

     田・徳川連合軍に大敗すると二俣城は徳川氏に包囲される。徳川軍は周囲の武田

     方諸城を攻め落とす一方、二俣城を兵糧攻めにして城を落としたとされる。

     のち、家康臣下大久保忠世が入城し城の拡張を図るが、家康関東移封により忠世

     も小田原四万石を与えられ二俣城を後にする。これにより二俣城は廃城となった。

       二俣城跡石碑

       二俣城跡本丸跡

       本丸跡に残る天守台跡

一言  二俣城跡は天竜市街地の北側、標高約100mの丘状地に残る。

     城域一帯は公園地として整備され、駐車場から本丸に続く道には人の通過をセンサーで

     感知、自動的に説明テープが流れるなど観光客には嬉しい仕掛けも。

     現在の遺構は大久保忠世在城時のものとされ、県下最初の天守台のほか、土塁・石垣・

     二の丸・堀切等が残る。

     また、二俣城は前述の通り水の手を井楼によって天竜川より汲み上げていたということから、

     井楼も復元されている。

     なお、二俣城といえば家康の嫡男信康が武田氏に通じたとの疑惑から織田信長より処分を

     求められ家康は信康をこの二俣城に幽閉、泣く泣く自害を命じた悲話が有名。のち家康は

     信康の菩提を弔うため二俣城近くに清瀧寺を建立した。

       信康の菩提寺清瀧寺

       清瀧寺にある信康廟

  

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