比志の城山跡
所在 山梨県北巨摩郡須玉町比志
交通 JR中央本線韮崎駅よりバス比志下下車
歴史 比志の城山の成立年・城主等に関しては不明であるが、地元武士団が有事に篭もる城として戦国時代以前には
機能していたのではないかと推測される。
戦国時代に入り、甲斐武田氏は情報伝達方策として国内各所に烽火台の整備したが、この比志の城山も烽火台
として利用されたという。
また、城山眼下に甲斐と信濃を結ぶ小尾街道が通っていたことから、街道を監視する役目も併せて担っていたと
考えられている。
比志の城山遠望
比志の城山主郭部
一言 比志の城山は大永8年(1528)の棟札を残す比志神社の、県道を挟んだ南に位置する比高約50mの小山が
その地である。
遺構としては祠が奉られている主郭のほか、一段下がった西に副郭が残っている。
城の作りとしてはやや簡素な感が否めず、戦闘目的より、むしろ烽火台及び監視所の用途として整備されていった
ものと思われる。
西側に残る副郭
城跡眼下に位置する比志神社
なお、登城は麓に建つ徳泉寺側から行ったが、当初、反対側から登ろうとした。
すると道の先には野猿が3匹。
その昔、この比志の城山近くに位置する獅子吼城登城時、野猿の群れに威嚇されまくった苦い過去が蘇る。
再び比志の集落に戻り話を伺ったところ、「ここらへんの猿は人を見れば逃げるよ」との事。
獅子吼城跡では『人間を見て逃げなかっただけ』なのか、それとも『人(人間性)を見て威嚇して来た』のか。
...。
ともあれ、野猿に注意。