日ノ出城跡
所在 山梨県韮崎市穂坂町日ノ城
交通 JR中央本線韮崎駅よりバス蔵の前下車
歴史 室町時代初期の応永・永亨年間(1394〜1441)、『日一揆』と呼ばれる周辺の小豪族連合は武田
右馬助信長に与し、逸見・跡部両氏に属していた輪宝一揆と対立していたが、その『日一揆』の拠点と
なったのがこの日ノ出城である。
永亨五年(1432)四月、信長・日一揆連合軍は荒川原で輪宝一揆軍と戦火を交えるものの大敗を喫し、
日一揆は壊滅的打撃を受ける。この敗戦以降、日ノ出城は廃墟と化すが、のちの天正十年(1582)武田
滅亡後の甲斐争奪戦において新府城に入城した徳川氏によって修築されたとの記録が残る。
但し、その直後に徳川氏は北条氏と和睦したため、日ノ出城は廃城になったという。
日ノ出城遠望
城跡に建つ石碑と説明版
一言 日ノ出城は新府城跡の東、約3kmの塩川を天然の堀とした丘陵地に残る。
城跡中央部は中央高速道が通り、また周辺も農耕地・車の解体工場・荒地に変貌して遺構は確認出来
無かった。
因みに城跡北側に土塁跡が残っているが、もしこの土塁が当時のものだとすると日ノ出城の城域は非常に
広大で、当時の日一揆の勢力を窺い知ることが出来るのではないか。
なお、手元の資料には無かったが、武田勝頼は新府城築城にあたり周囲に支城を設け新府城の防御を固
めたとされることから、この日ノ出城も新府城の外郭として使用されたのではないかと考える。
日ノ出城本丸跡
日ノ出城二の丸跡