花倉城跡
所在 藤枝市花倉城山
交通 JR東海道本線藤枝駅よりバス中田下車徒歩1時間
歴史 花倉城は十四世紀後半、今川範氏が駿河支配を目的に築いた典型的な山城である。
室町時代初期、北朝側の今川氏は戦功により駿河・遠江守護職の任を与えられるが、駿河国内には南朝側の
豪族が勢力を維持しており、今川氏の駿河経営は完全なものではなかった。
元和元年(1352)今川範氏は大津城に拠る南朝側の佐竹・藁科氏を攻め、これを降ろすと一時期大津城を
本城としたが、その後、花倉城を築城し移ったとされ、今川氏はこの花倉城を拠点として駿河支配に注力すること
になる。
なお、花倉城を拠点として駿河支配を進めた今川氏だったが、駿府の北、安倍城に篭もる狩野氏らの抵抗により
今川氏の駿府進出は氏範より後代になってからであった。
のち、今川氏の駿府における駿河支配が確立後も花倉城は機能していたとされるが、永禄十一年(1568)春、
武田軍の攻撃により花倉城は落城。城は兵火にまみれ、廃城処分になったという。
花倉城遠望
花倉城登城口
花倉城土橋跡
花倉城本丸跡
花倉城二の丸跡
一言 花倉城跡は藤枝市街の北、烏帽子形山から伸びる標高約300m・比高約250mの城山山中に残る。
城跡へは麓より細い農道があるので車で大手口までの登城が可能である。遺構としては城山の頂部に本丸を
設け、その南側に二の丸を配している。それらの周囲には土塁が走り、また空堀・堀切等も随所に確認出来る。
なお、花倉城の麓には範氏建立の遍照寺が残るが、当時の今川氏居館はこの遍照寺前の平地にあったとさ
れている。その遍照寺も武田氏侵攻による兵火により焼失したという。(のち復興。)
麓に建つ遍照寺
居館は遍照寺前にあったが現在は農地に