浜松城跡

所在  静岡県浜松市元城町

交通  JR東海道線浜松駅より徒歩18分

歴史  桶狭間の合戦にて義元落命後、今川氏は氏真が継ぐことになるが、その

     統治能力不足から周辺の領主より圧迫をうけることとなる。

     当時、遠江の重要地であったこの地には今川氏重臣飯尾氏が曳馬城に

     篭もり抵抗を続けていたが、永禄十一年(1568)三河より侵攻してきた

     徳川氏に追われることになる。

     元亀元年(1570)、岡崎城を嫡男信康に譲った家康は三河より移りこの

     地に新たに浜松城を築き、天正十四年(1578)駿河駿府城に移るまで

     約18年間、家康はこの浜松城に在城し領地拡大に努めることとなる。

     ところで家康最大の危機は元亀三年(1572)十二月に起った三方ヶ原の

     戦いとされる。

     同年十月に西上作戦を開始した甲斐武田信玄はこの浜松城を無視して西

     進を図るが、これに対し家康は浜松城より北7kmの三方ヶ原で武田軍を迎

     撃、一大合戦となる。

     その結果、家康軍は大敗。家康は僅か数騎に守られこの浜松城に逃げ帰っ

     たという。

     のち、家康が関東移封によりこの地を去ると、豊臣家臣堀尾帯刀吉晴が入城。

     さらに関が原合戦後、徳川氏による藩幕体制が確立すると浜松城には徳川

     譜代大名十家二十二代が入城し、幕末に至る。

       浜松城復興天守閣

       天守曲輪付近

     

一言  浜松城は三方原台地の南東部に位置する平山城で、西から東に向けて天守曲

     輪・本丸・二の丸・三の丸が築かれ、されその城域は広大なものであったという。

     しかし明治維新で廃城となったあとは、天守曲輪・本丸の一部を残して城郭は取り

     壊されて、市街地と化した。

     例えば藩主の奥御殿等があった二の丸には市役所・小学校が建ち、その東側、

     侍屋敷が立ち並んでいた三の丸跡は広大な道路とビル群になっている。

     なお天守曲輪には現在、昭和33年に再建された復興天守閣が聳え、内部は資料

     館となっている。

      天守閣より浜松市街を望む

      浜松城公園内にある徳川家康像

 

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