馬場氏館跡

所在  山梨県北巨摩郡白州町白須

交通  JR中央本線長坂駅より徒歩1時間

歴史  鎌倉時代初期より、甲斐・信濃国境にあたるこの地には青木・折井・宮脇・横手・白須氏ら諸氏が

     武川衆として同族的結合をもっていた。

     その一つ、教来石氏出身の民部少輔信春は室町時代後期から戦国時代にかけての甲斐守護、

     武田信虎・信玄・勝頼三代に仕えた忠臣としてその名が知られている。

     信春は当初教来石姓を名乗っていたが、信虎時代より断絶していた馬場氏の名跡を継ぎ、また、

     甲斐のみならず他国にもその武勇が知られた原美濃守虎胤の武名にあやかるようにと信玄より

     『美濃守』を賜り馬場美濃守信春と名乗った。

     馬場信春は数多くの戦に参加したが一度も負傷しなかったことから「不死身の鬼美濃」と呼ばれ、

     また武勇のみならず内政にもその才を発揮して『武田家四名臣の一人』と呼ばれるまでに地位を

     高めた。

     天正三年(1575)、武田勝頼は設楽原にて織田・徳川軍と対陣。劣勢を危惧した信春は勝頼に

     諫言するが聞き入れられず戦端は開かれ、結果、新兵器鉄砲の前に武田騎馬軍は壊滅的な打

     撃を受ける。

     勝頼退陣の殿を務めた信春は、勝頼が戦場から落ち延びたのを見届けあと敵兵に突入し、壮絶

     な最後を遂げたという。

       馬場氏の館跡とされる自元寺

       寺院内に建つ信春の墓

 

一言  この自元寺は馬場美濃守信春の開基とされ、この近辺に信春の館があったとされる。

     現在、館跡の明確な遺構は残っていないが、寺内には長篠の戦いにて没した信春の墓が残る。

     なお、信春の子信忠は武田家滅亡時、松本深志城を守っていたが織田軍の侵攻により「退出

     した」とも「城と運命を共にした」とも伝えられている。

     なお武川衆は武田氏滅亡後、甲斐に侵攻した徳川氏に参陣、旧領を安堵されたほか、武州鉢形

     に知行地を与えられ栄えたという。

       自元寺寺域(遺構は確認出来なかった。)

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