穴山氏館跡
所在 山梨県韮崎市穴山町次第窪
交通 JR中央本線穴山駅より徒歩15分
歴史 穴山氏は十四世紀中頃、武田信武の五男義武がこの地へ移封してきたことから興ったとされ、『甲斐
国志』によるとこの地にその居館があったとされ、また穴山氏は詰城として能見城を築城し有事に備え
たという。
室町時代後期から戦国時代にかけて穴山氏は信友−信君と続く。信君は信玄の娘を妻に迎え、親族衆
として武田家臣団の中でも重きをなしたが、勝頼の代になると武田家家運は徐々に傾いてしまう。
当時駿河江尻城主だった信君は遠江より侵攻してきた徳川氏に降り、武田家滅亡の一因を担うこととなる。
のち信君は本能寺の変の折に京都にて落命。跡を継いだ子勝千代も夭折し、穴山氏は断絶となる。
穴山氏館跡前に建つ看板と木碑
館跡とされる林野
遺構は確認できなかった
一言 穴山氏居館跡はJR穴山駅の北、約1kmに残り、木碑と看板が建っている。
ただし、居館跡は現在、林野と化して遺構は確認出来なかった。
居館跡より北東約500mのところには曹洞宗大龍寺が建っているが、この寺の裏手には穴山義武・
満春(一説には信君)の墓がある。
穴山氏の墓が残る大龍寺
寺の裏手にある穴山一族の墓石