「また来るから」
 そう言って秋良が帰っていった後、勝也は部屋で本を読んでいた。他にすることもなく、無為に時間を過ごすことの苦痛を味わっていた。
 反省文の提出があるが、それを書く気に、今はなれなかった。
「勝也、先生がいらしたわよ」
 母親のノックにドアを開けると、陽の来訪を告げられた。
「先生が?」
 勝也は慌てて階段を下りてリビングに行くと、陽が一人で座っていた。
「先生……」
 勝也が驚きながら声をかけると、陽は振り返りながら立ちあがった。
「どうだ? 少しは落ち着いたか?」
 柔らかい声に勝也は素のまま頷いた。陽が勝也の顔を見て微笑んだ。
「落ち着いたみたいだな。落ちこんでいるのかと思ったけど……、安心した」
「先生、どうぞ、おかけ下さい」
 母親がお茶の用意をして運んできてくれた。
「勝也も座りなさい」
 陽は失礼しますと言って、ソファに座る。勝也はぎこちなく陽の向かい側に座った。
「遠くまでご苦労様です。この度はいろいろご迷惑をおかけしまして」
 母親が深く頭を下げるのに合わせて、勝也も一緒に頭を下げた。母親が出て行くと、静かな空気に、部屋が満たされた。その静けさは、不快なものではない。
「やっぱり、理由は話してくれないか?」
 陽が真っ直ぐに勝也を見つめてきた。
 勝也はその視線を反らさずに受けて、謝った。
「それだけは、どうしても、できません」
「……そうか」
 陽の表情が悲しそうに曇る。胸がどうしようもなく痛む。が、勝也は「ごめんなさい」と謝った。
「こちらこそ、悪かったな」
「先生?」
「あの時、……二人の生徒が出ていったのに、その二人のことを覚えていないんだ。ちゃんと見ていれば、せめて……」
 処分を軽くできたかも知れない。
「俺は処分が重いとは思っていませんから……。先生ももう気にしないで下さい」
「三池……」
「あの時は、退学になってもいいと、思ったんです」
「三池。だったら、どうしてそのわけを言わない!」
 陽の荒げた声に、勝也は多少なりとも驚く。いつも穏やかで、大人だと思っていた人が、はじめて自分に感情を見せてくれた。
「先生……」
「何があったんだ?」
 陽の苦しげな問いに、勝也は気持ちが塞がれる思いがする。けれど、言えない。言ってはいけない。これ以上、この人を苦しめてはいけないから。
「先生……。ごめん」
「あの人になら言えるのか?」
 突然の問いかけに、勝也はわけがわからず、顔を上げた。
「あの人?」
「今さっきまで、ここにいた人だよ。アキラ、って言うんだろ、あの人……」
「せんせ……」
「三池、言ったよな。アキラという知り合いはいないって。それに君のお兄さんも言った。唯一喋るかもしれない人だって」
「違う、先生!」
「どこが違う?」
 怒りというより、悲しみに塗られた瞳が勝也を見ていた。
「どこが違うっていうつもりだ? あの人の名前、アキラじゃないのか?」
 勝也は答えられなかった。
「それともお兄さんの言った言葉が間違っていたのか? 駐車場で、君はあの人に抱きしめられていた」
 あの時は、秋良の目を見るのが怖かった。泣かれたり、責められたりするならまだしも、約束を破った勝也を蔑むのではないかと、まるで小学生の時のような気持ちになったのだ。
「あの人には言えて、僕には言えないか?」
「誰にも言わない。秋良さんにも、先生にも」
「どうして、そんなに自分で背負おうとするんだ」
 立ち上がった陽に、肩を掴まれた。
「お前、まだ15才だろ? なのに、どうしてそんなに何もかも背負おうとするんだ? 僕じゃそんなに頼りないか?」
 勝也は肩に置かれた手を見て、そして首を振った。
「僕は、三池に信用されてないのか?」
「そうじゃない……」
 わけを話せば、この人は苦しむだろう。勝也にはそれが全てだった。
 理由を話したとして得られるのは、自己満足だけだ。そんな愚かなことはしたくない。
「僕は先生を信じているし、先生にも僕を信じてほしいと思っています」
「だったら、三池」
「だけど、その信用を持ち続けてもらうためにも、今回のことは……、言いたくない」
「言わない方が、僕は不信を抱くだろうな」
 尤もな陽の言葉に、勝也は頷いた。
「以前、少しでも信用してもらえていたのなら、それ以上の信頼を得られるように、俺は努力します」
「簡単に言うけれどな、三池。それは並大抵のことじゃないんだぞ。いっそ、話してしまう方が……」
 陽の説得にも、勝也は首を振った。
「これからは絶対、先生を裏切らない」
「三池……」
 強い視線が向けられ、陽は背中を引いた。
「先生にもう一度信頼してもらえるようになるまで。先生に嫌味を言った教師たちに、俺のことを認めさせるまで。絶対、頑張れると約束する」
「お前は……、…………不器用だ」
 陽は弱々しく首を振って、悲しそうに言葉を漏らした。
「昔から器用だって言われてましたけど」
 勝也はふっと笑った。
 陽はその微かな笑顔に、勝也が何かを吹っ切ったのだと思った。
 勝也にとって、辛いもの。
 勝也の中の、苦しいこと。
 柔らかい笑みのまま、勝也は陽を見た。
「簡単なことじゃないぞ」
「わかってます」
「もう、暴力は絶対無しだぞ」
 陽がそう言うと、何故だか勝也は嬉しそうに笑った。不謹慎だぞと叱ろうとしたが、要は咎める言葉を飲み込んだ。
 はじめて見た、勝也の優しい笑顔に、一瞬だが魅入ってしまった。
「約束します」
 子供のように、勝也は小指を差し出してきた。
「ば、ばか、お前」
 陽はつい、乱暴な言葉使いで勝也を責めた。
 勝也は楽しそうに笑った。
 長い、長い約束の始まりだった…………。