謹慎期間が解けて登校を始めた勝也は、何事もなかったように落ち着いて見えた。
 提出した反省文は見事な出来栄えというより他はなく、日頃の成績の事もあり、生徒指導の松岡をはじめとして、その後何かを言う教師はいなくなった。
 クラス委員をやめさせろと言った声もあったにはあったが、陽はそれらを受け入れはしなかった。
 勝也から何も取り上げたくない。その思いが強かった。
 それは勝也が自分に約束してくれたからであり、自分の中に存在する「あるもの」への意地に近いとわかっていた。
 あの笑顔を絶対に曇らせたりしない。
 それは陽自身への誓いでもあった。
 勝也は相変わらずに見えたが、冬芽に言わせると、「以前より角が取れた」そうで、むしろ陽がずっと感じていた勝也と、みんなが感じている勝也像が近くなったと言った感じだった。
 剣道部へも勝也は正式に部員として受け入れられた。
 入部するかしないかの時期だったので、他の部員が勝也をどのように受け入れるのかが心配だったが、竹刀を持ってみればわかると部長が言ったとおり、勝也の姿勢や空気から、勝也に曲がったところなどないとすんなりと受け入れられた。
 何もかもがうまく流れ始めた。
 陽はそれを感じ、ほっとするのと同時に、一抹の寂しさも感じていた。
 何故寂しいなどと感じるのか、陽は自分でもわからず戸惑う。
 これで良かった。と思いながら、自分は何が出来たのだろうかと、そう思ってしまうのだ。勝也のためになることは、結局のところ、何もできていないに等しかった。
「何か困ったことはないか?」
 放課後、廊下で勝也と擦れ違った時に陽が尋ねると、勝也は微笑んだ。
「特には何もないですよ。顧問の先生が、剣道部に来てくれないことくらいかな?」
「忙しいんだよ。色々と」
 言い訳をする陽に、勝也は冗談ですよと笑った。
「冬芽と先生だったら、どっちが強いんですか?」
「さあ……、冬芽じゃないかな。負けそうだと思ってからやってないから。今度手合わせしてもらおうかな」
「僕が先生に勝てるわけないですよ」
「どうして。三池もなかなかのものだと思ったぞ。この前の稽古を見た限りだと」
 陽が手で竹刀を握るふりをした。勝也は口元だけで意味ありげに笑い、そうですねと言った。
「先生、今度の日曜日、忙しいですか?」
 唐突に思える話題転換に、陽は勝也を見上げた。
 背の伸び悩んでいる冬芽は、勝也や春の長身を羨ましがっている。そして、陽の身長に自分の限界を見て、溜息をつく。勝也と陽では15センチ近い差が開いている。
「日曜日?」
「何も予定がなければ、でかけませんか?」
「何か悩みがあるのか?」
 真剣に尋ね返した陽に、勝也は珍しく笑い声を立てて、首を振った。
「ただ、純粋に誘っているだけです」
「純粋って……、三池……」
 そこで陽は戸惑い、答えを濁した。
「どうして……」
「先生を誘う理由ですか?」
 聞いてはいけないと陽は思いながらも、口に出せずにはいられなかった。何故聞いてはいけないのだろうと自問するが、その答えを自分の中に見出せぬうちに、勝也は話した。
「一緒にいたいから、かな。先生と学校以外で会いたいんです」
「三池……」
 急に気まずくなった雰囲気に、勝也は小さく笑って、今回は諦めますと言った。
 陽はほっとして、その自分の様子があからさまだった事に慌てた。
「いいですよ。気にしませんから」
 勝也は穏やかな顔で、陽を見ていた。
「また誘います。気が向いたら、デートしましょう」
「デートって、お前……」
 勝也はニッコリ笑って、陽に片手を上げて、その場を離れた。
 その広い背中を見送りながら、陽は溜息をついた。
「なんだよ……、あいつ」
 遠ざかる背中を見つめながら、陽はふと気づいた。
 最近、変ったと思っていた勝也の、何が一番変わったのか。それは……、背中だ。
 孤独しか感じさせなかった背中が、優しくなったように思う。
「からかわれたのか?」
 まさか、勝也に限って。そう思いながらも、勝也の後ろ姿が廊下を曲がり、視界から消えるまで、陽は目が離せなかった。
 
 また誘うと言った通り、勝也は週末が来る度、陽を誘った。
 陽はそれに返事をしなかったり、断ったりしている。いい加減、それは勝也の陽に対する挨拶なのではと思い始める。
「三池、もうすぐテストだろ。余裕あるんだな」
 相変わらず出かけようと誘う勝也に、陽は嫌味で返した。間もなく期末テストが始まろうとしている。明日からはテスト前で、クラブも休みに入るという時期だ。
 勝也の成績に不安がないとはいえ、こんな調子でいいのだろうかと、担任としての不安が首をもたげる。
「他の先生がヨウ先生に何も言えないような成績にしてみせますよ」
 勝也の宣言に、陽は目をむいた。驚くよりも、腹が立った。
「な、何をっ! 何のための勉強だ、お前……」
 陽の混乱に、勝也はふっと暗い笑みを漏らした。
「先生らしいですね。もちろん、勉強は自分のためにしますよ。けれど、テストは結果でしょう? 今までだって、俺は自分のためにテストを受けたことは一度もありませんよ」
 涼しい顔で、大胆なことを、勝也はさらりと言った。
「じゃあ、なんのためだって言うんだ?」
「兄を乗り越えるため」
 短いがきっぱりした勝也の答えに、陽は絶句する。
「別に兄を追い越そうとか、対抗しようとか、そういうものじゃなかったですよ。ただ、俺の中の兄を乗り越えたかったんです。何点取れば乗り越えられるとか、そんな目標も無しに、ただ我武者羅だったな」
 勝也の独り言のような話し方に、陽は呆然として勝也を見ていた。
「今考えると、バカみたいですね」
「比べられるのは、別に嫌じゃないって、言ったじゃないか」
 五月だった。新緑爽やかな登山道で、勝也は確かに陽に言ったのだ。
「嫌じゃないですよ。ただ……ね、どうしても俺の中で、兄は大きすぎたんです。息苦しいくらいに」
 陽は苦しい表情をしていた。まるで勝也の苦しさを同時に感じているように。
「でも、もう大丈夫ですよ」
 勝也は明るい表情で笑った。陽は気づく。この頃の勝也は本当に明るいと。
 陽がその誘いを断り続けているのに、それを責める事もしないし、変わらぬ態度で接してくる。
「兄と俺とでは、違う道を歩いて行くんだって思ってからは、気にならなくなったんです」
「違う……道……」
 勝也がそんなことで苦しんでいると、気づきもしなかった自分を、陽は悔やむ。
「ヨウ先生のおかげですよ」
「僕は……、何もしていない」
「言ってくれました」
 急に真面目な声になって、勝也はまっすぐに陽を見た。
 何を言ったというのだろうか……。陽は思い当たる事がなく、勝也の視線を受け止めかねて、視線をずらしてしまった。
「いい兄弟だなって。あれが、自分の作り出した兄の幻影を振り切るきっかけだったんです。なのに、俺、先生に迷惑かけたでしょう。停学沙汰起こして」
「お前が理由を話してさえくれれば、何も問題にはならなかったんだ」
 勝也は唇をきゅっと結んで、悲しそうに笑う。
「わけは、言えません。誰にも言わない。先生に嫌な思いさせた分、他の先生からはもう何も言わせない。俺の独り善がりな理由ですけど」
 決して陽のためではない。自分のためにそうするのだと言う気遣いを見せる勝也に、陽は言いかけた言葉を飲み込む。
 そんなことしなくていい。それよりも、理由を聞かせて欲しい。
 けれど、こうと言ったら譲らないだろう勝也の態度に、陽は溜息をついて、自分の中にあるわだかまりを消そうとする。
「そうだ」
 陽の溜息をどう受け止めたのかはわからないが、勝也は突然また明るい声で、少し身体を傾け、陽を覗き込んできた。
「成績が上がったら、デートしてください」
「なっ、何を……。成績が上がったら、って、実力、中間、模試で常に学年でトップのやつが、これ以上どうやって上がるって言うんだ」
 陽が指摘してやると、勝也はしまったという顔をして、身体を伸ばして、上を向く。
「惜しいことしたな。こんな事なら、5番くらいをキープしておけば良かったな。ヒロちゃんのことなんて、気にしなきゃ良かったよ」
「お前……、わざと成績下げたりしたら、クラブ活動停止だからな」
 陽が低い声で凄んでみせると、勝也は慌てたように首を振った。その仕草は、普通の高校生のようで、陽は嬉しくなる。
 こんな風になって欲しかったのだと思うのだ。
「だから、俺のことで、他の先生に陽先生が責められるようなことは何もしませんよ。信じてください」
「……いいけどな」
「だったら、全教科、100点」
 勝也の宣言に陽は一瞬、聞き間違いかと思った。
「なん……、だって?」
「全部満点だったら、デートね。どうです?」
 うんと言えばいいのか、ダメだと言えばいいのか。
 全教科満点なんて、絶対無理に決まっている。そう思うのに、それを約束して、もしも勝也がそれを成し遂げてしまったら。
 ……勝也ならやってしまいそうな気がする。
 陽は答えられずに、勝也を睨んでしまう。
「ま、それを成し遂げられたら、考えてくれる。っていうのでどうですか?」
 相手の気持ちに聡すぎる。勝也のそんな受け答えに、陽は哀しいような、恐ろしいような気がした。
 こちらの気持ちまで観通されているのではないだろうか……、と。
「わかった。それが……、できればな」
 陽が張りつく舌を動かし、ようやくそれだけを言うと、勝也は今までにない優しい笑顔を見せた。