テスト問題を作りながら、陽はパソコンの前で唸っていた。
 問題はほぼ出来上がっている。それらの解答を頭の中に浮かべながら、考えてしまうのは、勝也なら何点取れるだろうかという事だ。
「…………間違いなく、満点だな」
 勝也はこれまでの数学のテストで、ほとんどに満点をとっている。それを考えると、この程度の問題では、満点を取ると思われた。
 数学のテストで百点を取ったとして、良くないということはない。むしろ望ましい事だろう。けれど……。
 勝也の他の成績を思い浮かべると、どれも満点が不可能とは思えないのだ。
「デートしましょう」
 明るい声で言った勝也。最後まで断り切れなかった自分。
 いっそ、告白されたなら断ることもできるのにと思って、陽は首を振る。
 まるで、それを期待しているみたいだと思った。そんなこと、あるわけがないのにと思う。放課後の駐車場。薄闇の中で、勝也を抱いていた優しい人影。
 胸が痛くなる。
『先生、恋人っている?』
 いつだったろうか、勝也に訊かれた。まだこんなふうに勝也を意識していなかった頃だ。
『ノーコメント』
 他の生徒に答えるように勝也にも答えた。
 クスリと笑う相手を、むっとして、軽く睨んだ。
『いないんですね』
 どうしてわかったのだろうと思うが、わざわざ否定するのも、ましていると見栄を張るのもバカらしい気がして、ノーコメントを押し通した。
 その時に勝也が嬉しそうに笑ったように思えて、気が抜けた。それからだったのかも知れない。勝也と楽しく会話ができるようになったのは。
 自分の前では、冷徹な仮面を脱ぐ勝也に、陽は内心、優越感さえ抱いていた。
 自分は勝也を好きなのだろうか。自問すると同時に否定する。
 自分は教師で、勝也は生徒。それ以上に何があるというのだろう。
 勝也は陽に迷惑をかけた事で申し訳なく思い、成績を上げると言ったのだ。ただそれだけだ。
 陽は何度も自分に言い聞かせる。自分が勝也に好かれているなんて、傲慢な考え方は持つなと戒める。
 だから……。間違っても二人で出かけるなんて、してはいけない。
 このまま、教師と生徒でいれば、理想的なんだと、陽は思う。
 陽は無言でキーボードに指を置く。そしてラストの問題をデリートした。
 解けるわけがないと思う問題を作った。高校数学では教えない問題。むしろ教える必要のない問い。
 ほかの教科で満点を取ろうとも、ここで外してもらう。
 それでいい。それで……。
 陽は何度も言い聞かせ、問題を作成し、テスト問題に使用する図形と一緒にMOに落とした。それを印刷担当の事務員に渡せばいいのだ。
 それでいいと思っていたはずなのに、陽の心の中には暗く重いしこりが沈み込んだ。
 
 試験一週間前は職員室にも、教科研究室へも、生徒は出入りできなくなる。クラブ活動も休止になり、放課後の学校は、まるで活気がなくなる。
 ホームルームや数学の授業で勝也を見る事はあっても、今までのように気軽に話せることも少なかった。
 それが当たり前のことなのに、陽は物足りない気持ちになる。
 テスト問題が刷りあがってきて、教科担任同士が、問題にミスがないか確かめ合う。
 陽はその時になって、自分の問題に指摘が入るのではないかとうろたえた。
「朝比奈先生」
 数学家の主任教師の松原に声をかけられて、陽はびくりとする。
「はい」
 恐る恐る顔を上げると、目の前に問題用紙が返された。
「素晴らしいですね。我が校にとって、全く相応しい」
 松原は満足そうに頷きながら、用紙を渡す。
「ありがとうございます……」
 本当にいいのだろうかと、陽は返って訝しくなった。
「それで満点を取れる生徒がいたら……、いや、いて欲しいなぁ」
 独り言のように呟き、松原は自分の教卓に戻り、煙草に火をつけた。生徒の出入りが禁止されている期間は、松原は教科研究室でも遠慮なく煙草を吸う。
 後戻りの出来なくなった陽は、これで良かったのだと、ホッとしながらも、後ろめたさは更に強くなっていった。
 
 
「それでは、……はじめ」
 腕時計を見ながら、監視役の教師がテストの開始を宣言した。
 裏向けに配られた問題用紙を返して、まずは名前を記入する。
 ざっと全ての問題を見て、勝也は最後の問題に目を止めた。
「…………」
 設問を読み、しばらく考え込む。
 一つ溜息をつき、勝也は問題の最初から解答を記入していく。
 シンと静まり返った教室には、カリカリと鉛筆の動く音だけが響いている。
 一時間の半分を過ぎた頃、教室のドアが開いた。
「何か質問は?」
 各教室を回っていた陽が、このクラスにもやって来たのだ。
 その声に顔を上げた勝也と、陽の視線が合った。
 陽がすっと視線をずらす。
 それを見て勝也は微かな溜息をついた。
 何も質問が出されずに、陽は教室を出る。
 教室を出てから、陽は大きく深呼吸する。
 問題用紙を持っている手が小刻みに震えているのがわかった。
 勝也と視線が合ったときに、責められているような気がした。それだけで怖くなった。自分の情けなさに嫌気が指しながら、これで良かったんだと言い聞かせる。
 もしかしたら、勝也ならあの問題を解けるかもしれないし。
 一瞬でもそう思ったことにうろたえ、陽は首を振る。慌てて次の教室へと移動する。心臓の鼓動は、尚も速く打ちつけていた。
 
 
「ヨウちゃん、あの問題、難しすぎ」
 家に帰るなり、冬芽がプリプリ怒り出す。
「どれ?」
 ぎくりとしながらも、陽は素知らぬふりを通す。
「ふーんだ、わかってるくせに。どうしてあんな解けもしない問題出すんだよ。春だって解けなかったって言ってたぞ」
 数学の得意な春にも解けなかったと聞いて、心の中でほっとする。そしてホッとした自分にうろたえる。今日はそんなことの繰り返しだ。
「もう、明日は社会があるし、英語もあるし、ゲロゲロ」
「冬芽」
 言葉使いが悪過ぎると目で注意する。
 けれどテスト期間中の冬芽は、気が立っていて、しかも数学が難しかったものだから、ご機嫌斜めで、普段ならすぐに謝るのだが、今日は知らん顔だ。
 解答用紙の束を持って、陽は自分の部屋に入る。
 まだ……、勝也の答案用紙は見ていない。見るのが怖いのかと、自分を叱りつける。
 出席番号順に並べられた用紙を、逸る気持ちを押さえて、あいうえお順のまま、採点していく。
 そして、「三池勝也」の文字にびくりとする。
 外見に似合わない、神経質な細かい文字が並んでいる。どこかで習ったのだろうかと思うほど、綺麗な文字を書いてある。
 視線はつい、最後の問題に注がれる。
「正解……」
 喜ぶべきなのか、残念がるべきなのか、複雑な心境で、陽は赤ペンを握った。
「え……?」
 最初から丸をつけようとして、陽の手が止まる。
 一番最初の、サービス問題と言ってもいい問題の一つを勝也は間違えていた。普段の勝也からすれば、考えられないミスである。
 けれど何度見ても、それは間違いだった。
 結局、最後まで目を通して、陽は勝也の点数を書き込む。
 98点。
 一問目を間違えていなければ、満点だった……。
 これは……?
 教室で会った時の勝也の目を思い浮かべてしまう。
 無言の抗議なのだろうか? まさか。
 自分で提示したのだ勝也は。満点を取ると。一問目をみすしたのは、単純な彼のミスだ。
 陽は何度も自分に言い聞かせた。
 その行為が、いかに矛盾に満ちたものであると、わかっていても……。