学校はテスト休みにはいった。その間にも陽は学校へ行き、戻ってくる各教科の点数と評価を通知票へと書き込んでいく。 評価は5段階。 そして5の並ぶ通知表を見て、陽は溜息をついた。 勝也にとっての、高校での初めての通知票。担任として喜ばしい、その成績に、出て来るのは溜息ばかりだ。 『兄を越えたいと、思ったんです』 さらりと言った。その深い意味。 卒業生の成績を……、見る必要もないのに、昨日の夜、陽は見てしまった。 「越えて……、それでその先には何があるんだ?」 勝也の家を訪れ、母親に「アキラさんがいてくれて良かった」と言われた人。 そこに辿りつくのではないのか? 「これで……、きっと満足なんだよな?」 通知票の最後の空欄、数学のところへ陽は『5』と書き込んだ。 兄を越える通知票を、数日たって、勝也に手渡すのは自分だ。 ……教師として。 勝也を褒めてやる。……教師として。 その後に勝也が何を選ぶのか、陽にもわからない。わからなくていいんだと、何度も何度も繰り返した。 「ヨウちゃん、電話」 夜、食事の用意をしていると、冬芽が電話を差し出した。 「三池から」 子機を受け取ろうとする手がびくっとして止まる。 「早く」 陽はゴクリと息を飲み、子機を受けとって保留ボタンを解除した。 冬芽はさして興味もなさそうに、リビングへ戻っていく。気になるテレビがあるのだろう。 「もしもし……」 『先生? こんばんは。電話だと、冬芽と声が良く似ているんでびっくりした』 「……何か、用か?」 声が固くなるのがわかっても、普通には話せなかった。 『テストの結果、先生ならもうわかるかなと思って』 やはりその事かと、陽は息を吸う。そしてなるべく事務的な言い方になるように気をつけた。 「終業式に成績表を渡すことになっている。それまでは個別には教えられない」 『そうだよね。すみませんでした。ところで、今度の日曜、暇?』 「え?」 『面白い映画があるんだ。行かない?』 「…………」 どうして……。 最初に浮かんだのは疑問だった。 どうして、懲りずに誘うのか。自分は勝也にとって、誘うのに楽しい相手ではないだろう。 陽がどんな返事をしても、変わらぬ態度を見せてくれる。時には年上の自分より優しい気配りを見せて。 『お忙しいなら、諦めますけど』 答えられない陽に、さり気無く断りの隙さえ与えてくれる。 「生徒と出かける事は出来ない」 だから……。 ことさら冷たい言い方で、一緒にでかけられない理由を言ってしまった。もう、どれだけ誘われても、それを受ける意志はないのだと教える為に。 『俺は朝比奈陽さんを誘っているんだけどな』 陽の必死の抵抗も意に介さない風に、勝也の返事が聞こえた。勝也の方が余裕がある。そう思うと同時に、自分の名前を、……アキラと呼ばれた事に、想像以上に胸に痛みが走った。 その名前は……、ナニ? 「行かない」 息が苦しくなるような、嫌な感じ。 だから、理由も何もなく、行きたくないという気持ちが湧き、それだけを答えていた。 『……そうですか。じゃ、また夏休みになったら誘います』 「行かないって言ってるだろう」 ムキになって言う陽に、勝也は電話の向こうで戸惑っているようだった。 「……生徒とは出かけられない。それだけだ」 『わかりました。すみません』 静かに降りてくる謝罪に、それでも陽は心の霧を晴らせられなかった。 『それじゃ、失礼します。終業式で』 「あ、ああ……」 陽は電話を切り、しばらく受話器を見詰める。 「あんな断り方、可哀想じゃん」 突然横からかけられた声に、陽は驚いて、受話器を落としそうになった。 「冬芽、聞いてたのか?」 「聞こえたんだよ。他人の電話聞く趣味なんてねーもん。ヨウちゃんたらさ、クラブにもこねーでさー、三池あんなに頑張ってんのに」 ダイニングのテーブルの椅子を一つ引き、冬芽は腰掛けた。 「あんなに?」 「なんか、俺には良くわかんないけど、他にもクラブから勧誘されてたんじゃないの? 陸上部の先輩が、道場覗きにきて、どこのクラブにも入らないって言っただろとか、責められてた」 「それで、……なんて」 「ん? 三池?」 陽が頷くと、冬芽は面白そうに笑った。 「あいつってさ、意外に二面性あるよね」 「二面性?」 「うん。陸上部の先輩には丁寧に謝っててさ。うまいこと言って帰らせたんだよね。でも、帰った後……」 冬芽はその時の情景を思い出しているのか、クスクス笑う。 「インターハイに出られるくらいなら、とっくに入ってよなって言ったんだ。三池って、中学ではちょっと有名だったんだ?」 「さ、さぁ……」 内申にはそこまでは書かれていない。ただ、どこも推薦を受けずに、高校を受けたことはわかっている。 「うちもインターハイは無理だよって言ってやったら、剣道は自分のために続けているだけだからって。俺、ヨウちゃんがスカウトしてきたと思ってたけど」 「いや……三池は……」 大会にも出られない弱小部だ。メンバーが足りない。ヨウがぼやいた時に、勝也は入りましょうかと言った。確かに自分から入るとは言ってくれたが……。あの会話がなければ勝也は入部などしなかっただろう。 そして、あの時だった。……勝也は言ったのだ。アキラという知り合いはいないと……。 「ヨウちゃん?」 ぼんやりとしている陽に、冬芽は不審そうに声をかける。 「なんでもない。手を洗ってこい。食事だ」 「はーい」 子機を充電器に戻し、陽は断るにしてももう少し大人の言い方があったかなと後悔した。 成績票や、プリントを配り、補講の日程を知らせて、終業式は無事に終わった。 進学校のため夏休み中、補講は半分近くあるけれど、それでも解放感は生徒の顔にも満ちている。 「羽目を外し過ぎるなよー」 どうせ聞いちゃいないだろうと思いつつ、陽は注意事項だけをつらつらと並べる。そして、解散を告げてやる。 ざわざわと広がる楽しそうな声に、陽も微笑んで教室を出た。 勝也は特に変わった様子もなく、クラス委員として陽の手助けをしてくれた。気まずく思っていた陽は、勝也の態度にほっとする。 諸々の用事を済ませ、陽は剣道部へと顔を出した。 冬芽に言われた嫌味を気にしていたためだ。たまには顔を出して……、メンバーが揃ったのだから、競技会にも出たいし……、などと考える。 道場が近づくと、パシッ、パシッと竹刀の打ち合う音が聞こえてくる。その空気は陽の気持ちまでをも引き締めていく。 二人の生徒が立ち合いをしていた。垂れを見ると、一人は伊堂寺で、もう一人は三池と、白抜きの名前が読み取れた。冬芽が審判をしている。 春の剣は陽も良く知っていた。高い身長を活かし、上段から容赦なく打ちつけてくる。身長の低い陽には、怖い相手である。 勝也の剣はまだ良く知らなかった。何度か打ち合ったが、それはあくまで勝也の実力を試すものだった。 春が相手なら、勝也の実力も隠すことなく良くわかるだろうと思った。 何度か竹刀を合わせた後、勝也と春の位置が入れ替わった。 勝也が面の奥から陽を見た。…………ような気がした。 「はーっ!」 そんな隙を春が見逃すわけもなく、面を取りにいく。咄嗟に勝也は右足を引き、春の竹刀を反した。 ぎゅっと空気が濃縮する。すぐに体勢を立て直した勝也は、正面に竹刀を構えた。 陽の目の前で勝也が舞った。身長で言えば、勝也の方が高く、春にとっても不利だっただろう。勝也が跳ぶように相手に挑みかかる。 勝負はそれまでの緊張が嘘のように、一気についた。 「一本!」 暫し呆気に取られた冬芽は、白い旗を揚げる。 二人の剣士が向かい合い、蹲踞する。 陽は思わず拍手をしていた。道場にもその拍手が広がる。 試合場から出て、二人は面を外した。額に汗が浮き出ている。 その姿を見て……、眩しく感じて……、陽は見ていられなくなった。この道場の向こうは、高校生の世代の所有するもの。 一歩を踏み入れかねて、陽は部員が黙想し、礼をとるのを眺めていた。それらをまるでスクリーンを通して見るように。 「ヨウ先生、お疲れ様でした」 部長が声を書けて出て行く。部員達もそれに続いていく。 道場には勝也が一人残っていた。 「三池、帰らないのか?」 道場の扉に手をかけたまま、陽は防具を持つ勝也に話しかけた。 「今、帰ります」 「いい試合だったな」 自然と口に出来た。あの電話から勝也と面と向かって話せなかった陽は、先ほどの試合で、刺が取れたように感じた。今もまだ、心の霧は晴れないけれど。 「ありがとうございます」 勝也は笑い、礼をする。紺の剣道着が凛々しい。 「でも、残念だったな」 「何が?」 「テストです。満点、取れなかった」 さして残念と思っているわけでもなさそうに、勝也は微笑んだ。だから陽は、勝也が本当に単純にミスをしたと思ったのだ。心からほっとして、陽は笑った。 「三池にはしては、珍しいミスだったな」 心が軽くなって、つい陽は昨日までの暗い気持ちをその瞬間は忘れていた。 「英語でも社会でも、一問目を落としたんだって?」 三教科共に98という点を思い出し、陽は微笑みながら、勝也を見た。その笑顔が強張る。 勝也は真剣な顔で陽を見ていた。 「偶然だと思いますか?」 「三池?」 声までもが、いつもの勝也とは違う。その迫力に、陽は一歩、後退さる。 「数学は三日目の二時間目。英語と社会は四日目。その三教科、一問目を落とす偶然なんて、あると思いますか? 確率的に、どんな数値が出ますか?」 言われて陽は息を詰める。 俺はバカだと自分を罵る。最初に勝也の点数を聞いたとき、なんとも思わなかった。そして、テストの時間割も気にしたことがなかった。 「あの問題は、間違えたくなかった」 「三池……」 勝也は防具を床に置き、今にも逃げ出そうとする陽の腕を掴んだ。 「最後の問題を見た時、先生の気持ちを知ったつもりだった。満点を取らせたくないんだと。だから、間違えてあげようと思ったんだ、最初は。けれどね、先生の気持ちをちゃんと知りたい。本当に、俺と出かけるのは嫌なのかと」 「それは……、何度も……」 断ったじゃないか。続けようとした言葉が喉に張りつく。 「教師と生徒。そんなの、俺には理由にならない。だから、最初の問題を落としたんだ。俺は……、先生を試したんだ」 苛烈な言葉の瞳の奥に、哀しい色が宿る。その色なら知っている。勝也からどうしても消えない孤独の色だ。 「なのにあなたは、ほっとして……、嬉しそうに言うんだ」 「嬉しい……なんて」 「どんな顔をしているか知ってる? 俺と二人きりになると、苦しそうになる。けれど、いやがってはいない。それに期待してはいけなかったの? わざと間違えてあげた。それに気づかないで、ほっとして顔をして。今日はどんなに明るい顔で俺を見たか、わかってる?」 何も言い返せなかった。勝也の指摘することは、一々尤もで。そして今、陽の胸に射すのは純粋な恐怖だった。 「俺が……怖い?」 「三池……」 怖くないと言ってやれれば、どれほど救われるだろう。勝也も、そして自分も。 「あなたが……好きなんだ」 とうとう勝也の口から出た言葉に、陽は逃げ出そうともがいた。嫌だ。聞きたくなかった。 聞いてしまえば、全て壊れる。 聞かなかったことにして、優しい関係のままでいたい……。 けれど、勝也はそれを許してくれなかった。 強い腕の中に抱きしめられた。微かに汗の匂いのする、綿の厚手の胴着の中で、陽は腕を突っぱねる。 「好きなんだ……。誰よりも」 その言葉は、陽の中に哀しく沈んだ。 その悲しみに身を委ねて、初めて気がついた。 ああ、そうなのか、と自分の想いを知った。 何故あんなにも苦しかったのかとわかった。 急に静かになった陽を腕に抱きながら、勝也は囁いた。 「陽……」 「俺は、あの人じゃない……」 胸に射す痛みは、アキラと呼ばれた時に最も強くなった。 「……?」 「何故、俺をアキラって呼ぶ。お前はあの人の変わりに、俺を手にいれたいだけだ」 「違う!」 勝也は抱きしめた腕をほどいて、陽の肩を掴んだ。 「二度とその名前で呼ぶな。俺は……、身代わりは嫌だ。他のアキラを探せばいい」 陽の目の前で勝也の顔が強張っていく。勝也の唇が震えているのも、陽は不思議と冷静に見れた。 「離せ」 「違う……。そんなんじゃない」 勝也の手を掴んで引き剥がし、陽は背を向けた。 「俺はあの問題でお前を試した。お前もあの問題で俺を試した。お互い様だよな。だから、……謝らない。お前も謝らなくていい」 一歩を踏み出すのは勇気がいった。けれど、一歩を踏み出すとあとは楽だった。 勝也は追ってこなかった。 |