『俺はあの人じゃない』 抱きしめた身体は、容易に腕からすり抜けていった。あまりにも呆気なく。 この気持ちを受けいれてもらえると思ったわけではないけれど、そんな拒絶にあうとも考えていなかった。 勝也は道場に一人取り残され、疲れたように座り込んだ。 「苦しい……」 胸に手を置く。 好きになった人には、いつも手が届かない。自分の気持ちも届かない。 「俺……、間違ってたのかな」 弱気な台詞を吐きながら、冷たい床に仰向けに寝転ぶ。 腕で目を塞いだ。着物のごわごわした感触が今は心地好い。 「好き……なんだ……」 なのに……。 駆け去っていく背中を追えなかったのは、自分の弱さだ。 乗り越えたつもりでいたのに。 もう……、過去の自分は、ここにいないはずなのに。 着物の胸をぎゅっと掴む。 「苦しい……よ…」 今だけ。今だけ弱音を吐かせて。 そうすれば、また仮面をつけることも出来るから……。 表面上は何も変わらないように見えた。 夏休みのクラブ活動を、勝也はごく普通にこなしていた。 剣道部の顧問である陽も、週に一度くらいの割合で顔を出している。 勝也はそれまでと変わらぬように、陽に接していた。 人懐こい笑顔で挨拶し、会話にも加わっている。 ただ……、陽にはわかっていた。勝也の背中に差す孤独の影に。 けれど陽は、以前のように、その影を消してやりたいと思うことは出来なくなっていた。 勝也に近づいてはいけない。 心の中には常にその警鐘が鳴り響いている。なのに、わかっているのに、目はいつしか勝也を追っていた。そんな自分に気づいて愕然とする。 そんな暑い夏の日、陽が剣道部に顔を出すと、勝也が一人で道場の床を磨いていた。 「三池、一人か?」 勝也は人が来るとは思わなかったのか、陽の声に驚いて振り返り、陽の姿にまた目を見張っている。 「みんな、もう帰りましたけど?」 陽は腕時計で時間を確認する。一時間も時間を取り違えていたらしいと気がついたが、どうすることも出来ない。 「何か連絡事項ですか? 回しておきますけど」 「いや……、いいんだ」 ただ見に来ただけだとは言えずに、陽は言葉を濁した。 「一人で床を磨いているのか? いつも?」 「あー、いつもはみんなで磨くし、今日は磨く日じゃないんですけどね。俺、中途半端に時間が空いたものだから」 勝也は苦笑いして、再びモップをかけ始める。 「帰らないのか?」 もうここにいる必要はないのにと思いながら、陽は立ち去れずにいた。ここにいてはだめだとも思うのに。 「家に帰ると間に合わないし、直接行くと早すぎるしっていう、時間なんです」 丁度、床を磨くのにいい時間が空いたと、勝也は笑って、せっせと手を動かしていた。 「誰かと……、待ち合わせしているのか?」 どうしてそんなことを聞く……。陽は自分でもわからぬ感情をもてあまし、ついそんなことを聞いていた。 待っても返ってこない答えに、気まずくなって顔を上げると、モップに両手をかけて、そこに顎を乗せて、勝也がじっと陽を見ていた。 「三池?」 ほんの数日前に、ここで抱きしめられたことを思い出す。 鮮烈に思い出してしまい、陽はうろたえる。 「友達と秋葉原に」 陽がもう逃げ出そうと思ったときに、勝也は気まぐれのように答えた。 「月乃とか?」 勝也と仲のいい友達の名前を思い出す。 「あいつは今頃、外国の海の中。今日行く相手は、中学の同級生」 「あ、いや……、変なこと聞いたな」 「別に。いいよ、聞いてもらえて嬉しいし」 「え?」 陽が振り向くと、勝也は笑っていた。 「三池……」 「俺、諦めたりしないし」 陽は呆然と勝也を見ていた。 今まで陽が見てきた勝也とは違う、精悍な顔つき。 「ヨウ先生も行かない?」 「……行かない」 気持ちより先に口が答えていた。そして何故か、『ヨウ先生』と呼ばれたときに、胸にきりっと痛みが走った。 「まぁ、いいけどね」 「どうして誘うんだ」 それが一番理解出来ない。もう、顔も見たくないだろう? 「どうしてって……」 勝也は苦笑し、モップを肩に掛けた。 「好きだからって、言ったでしょう?」 何でもないように言われて、陽はさっと頬に朱を掃く。 「だから……、それは……」 断ったじゃないか。あれから今日まで、陽の心に重くのしかかっていたというのに。 「あなたは断らなかった。身代わりは嫌だと言った。だから俺は、あなたは身代わりじゃないと、これから見せていくんだ」 「三池……」 「俺は……、身代わりなんて、あなたをあんなに辛い立場に立たせたりしない。俺は……、誰よりも、あなたが好きなんだ」 真っ直ぐな気持ち。真っ直ぐな、曇りのない視線。 それが自分のものだと思えたなら、……いや、最初に自分に向けられたものだと信じられたなら、どれほど幸せだろうと陽は思う。 年の差も、教師と生徒という立場も、そんな境界線全てを迷わずに越えたのに……。 でも、ダメだ。 今は信じられない。 「いつか、信じてくれるときでいいよ」 「…………」 勝也は微笑む。少し、寂しそうな笑顔で。 「俺は、諦めないから」 「お前、ちゃんと先生って呼べ」 流されそうな自分を感じ、陽は焦って注意した。 「先生こそ、普段は自分のこと、俺って言うんだ?」 「なんのことだ」 「昨日、俺って言ってたよ。ちょっとびっくりしたな」 「お前だって、最初は僕って言ってただろ」 クスクスと、勝也は肩を揺らす。からかわれたのだろうかと思ってむっとする。 「鍵、ちゃんと閉めて行けよ」 「わかりました。ヨウ先生」 楽しそうな声に、ますますむっとする。今まであんなに気にしていたのに。ずっと、気持ちが重かったのに。 職員室に戻りながら、陽は笑いを堪える。 けれど、何かが引っかかるような気がして、体育館を振り返った。 『あなたをあんなに辛い立場に立たせたりしない』 勝也の何気ない言葉がちくりと刺さる。 「お前って、わからないよ」 陽は再び重くなった気持ちに、哀しい溜息をついた。 |